不定期連載『ボールと生きる。』では、一人のフットボーラーの歩みを掘り下げる。今回は昨季限りで18年の現役生活に終止符を打った太田吉彰の中編。ベガルタ仙台から古巣ジュビロ磐田への復帰、憧れの先輩との日々、そして引退の決意について綴る。

プロ3年目で飛躍も名波に怒られた

画像: プロ3年目の2004年、J1で7試合に出場。その頃からスピードは際立っていた(写真◎J.LEAGUE)

プロ3年目の2004年、J1で7試合に出場。その頃からスピードは際立っていた(写真◎J.LEAGUE)

 2年目まで『ゼロ試合』の男が、プロ3年目でようやくチャンスをつかみ、04年10月24日のアルビレックス新潟戦で初先発・初ゴールをマークした。

「打ったら入りました。あの1点から僕のすべてが始まったんです」

 当時から名波には可愛がれていた。唯一無二の司令塔から常に言われていたことがある。

「俺が見ていないと思っても、お前は走り出せ!」

 信じて走れば、必ずパスが出てきた。

「一度、名波さんもさすがに見てないだろと思い、走らなかったことがあったんですよ。そうしたら、パスは出てきて……。あのときは、めちゃくちゃ怒られました。それ以来、必ず走っていました」

 持ち前のスピードを生かしたプレーで結果を残し始め、自信も付いてきた。2005年からは主力となり、07年には初めて日本代表にも招集された。

「自分の力だけでやれていると勘違いするようになっていました。周りのパスに生かされていたのに、それを分かっていなかった。代表に呼ばれても試合に出られず、ジュビロに戻っても出場機会が減りました。当時の僕は周りのせいにしていました。甘えていたんです」

 08年には追い打ちをかけるように右ヒザの前十字靭帯を断裂。ますます状況は苦しくなっていたが、自信は揺らがなかった。09年7月31日、クラブに慰留されながら契約満了で退団。ゼロ円提示を受けたわけではない。ほとんど前例のない海外挑戦の道を自ら選んだのだ。

 無謀とも言えるチャレンジが人生を変えるきっかけになるとは、26歳の太田は知るよしもなかった。

≫≫前編◎「震災後に知ったサッカーの力」

Profile◎おおた・よしあき/1983年6月11日生まれ、静岡県出身。ジュビロ磐田のU-15、U-18を経て、2002年にトップチーム昇格。05年から主力として活躍し、07年には日本代表に初めて招集された。09年7月に契約満了で磐田を退団し、ヨーロッパで半年間テストを受けるが、契約に至らず帰国。10年からベガルタ仙台に加入し、14年までプレーした。15年に当時J2の磐田に復帰し、J1復帰に大きく貢献した。その後も古巣に在籍し、19年限りで現役を退いた。J1通算310試合36得点、J2通算39試合4得点の記録を残した。176cm、72kg


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