上写真=スーツ姿も様になっている太田(写真◎山口高明)
文◎杉園昌之 写真◎山口高明、J.LEAGUE
ベガルタ仙台加入2年目に被災
引き締まった体にスーツがよく馴染んでいた。2019年12月、18年に及ぶ現役生活に終止符を打ったものの、体型はまだアスリートそのものだ。コロナ太りとは、無縁。「変わらないですね」と水を向けると、6月に37歳を迎えたばかりの太田吉彰は苦笑しながら告白した。
「実は辞めてすぐに6キロも太ってしまって……。コロナ禍の外出自粛期間中に6キロ落として、体型を戻したばかりなんです。ベランダでひたすら走ったり、自宅で必死に筋トレしていました。サッカーを辞めて、もう走らなくてもいいと思ったのに、また走っていますよ。僕の人生は走りっぱなしです」
現在は計12年半在籍したジュビロ磐田のアドバイザーという肩書も持つが、東京都内でセカンドキャリアをスタートさせている。自身も現役時代に5年間愛用したマウスガード「Neutral」の普及活動と、大学生アスリートの就業支援プロジェクト「JCAP」に取り組んでいるのだ。都内のオフィスでデスクワークもこなせば、関東近郊の大学などにも直接足を運ぶ。忙しい毎日を過ごす表情には、充実感がにじむ。
「一生懸命働いています。覚えることも、やるべきこともたくさんありますから」
今回のコロナ禍の影響で新たな社会人生活の出鼻をくじかれたが、本人は全く気落ちしていない。前だけを向き、突き進んでいくという。無我夢中で走り続けたプロサッカー人生と同じである。何度も逆境からはい上がり、たくましく成長してきた。
人生を大きく変えた9年前の記憶は、今でも心に深く刻まれている。ベガルタ仙台に加入して2年目。2011年シーズンは春先のキャンプから調子が良く、手応えもあった。万全の態勢で迎えた3月5日、アウェーでのサンフレッチェ広島との開幕戦。ベンチから戦況を見つめ、手倉森誠監督から名前を呼ばれたのは試合終盤。出場時間はわずか12分だった。敵地でスコアレスドローは悪い結果ではないが、太田は不完全燃焼のまま、もやもやしていた。試合を終えると、新幹線で浜松の実家へ向かう途中、座席に深く腰掛けて悔しさを噛み締めた。
「これでは、1点も取れずに全く期待に応えられなかった1年目と何も変わらないよ。キャンプであれだけやったのに、俺は何をやっているんだ」
そして、浜松から仙台に戻り、気を引き締め直してホーム初戦の準備をしているときだった。3月11日の金曜日、練習を終えて昼食を取ったあと、近所の坂道を歩いていると、真っ直ぐ立っていられないほどの揺れに襲われた。
ガソリンスタンドの看板は倒れ、目の前の車も大きく揺れた。自宅マンションに戻れば、家財道具は散乱。歪んだ部屋の扉は強引に引っ張り、ようやく開けることができた。電気、ガスなどもすべてストップ。すぐに回復すると思っていたが、生活インフラは一向に元に戻らなかった。
太田が津波の被害を知ったのも少ししてからだ。東日本大震災の大きさは、予想をはるかに超えていた。当然、チーム活動も停止。1週間後にはチームメイトと1台の車に乗り合って山形空港に向かい、そこから浜松の実家へ再び戻った。
「状況も状況だったので、チームの活動停止期間中にボールを蹴ることはほとんどなかったです。生まれたばかりの子どもの面倒をよく見ていました」