不定期連載『ボールと生きる。』では一人のフットボーラーを掘り下げる。第2回は昨季限りで引退した太田吉彰が登場。ベガルタ仙台、ジュビロ磐田で過ごした18年の歩みを振り返る。前編は仙台所属時に経験した東日本大震災とリーグ再開、その後の自身の変化について(全3回)

仙台が自分を成長させてくれた

画像: 震災後のホーム初戦。本人が珍しいと語るヘディングでゴールをスコア。仲間の祝福を受け、サポーターにゴールをアピール(写真◎J.LEAGUE)

震災後のホーム初戦。本人が珍しいと語るヘディングでゴールをスコア。仲間の祝福を受け、サポーターにゴールをアピール(写真◎J.LEAGUE)

 ベガルタの快進撃はこの1年で終わらなかった。翌シーズンはさらにパワーアップし、太田も本職の右サイドで大車輪の働きを見せる。苦手だった守備も体に染み込み、攻守両面で勝利に貢献。チームは序盤から上位を快走し、広島に続く2位でリーグ初制覇の可能性を残したまま終盤を迎えた。ホーム最終戦の第33節でアルビレックス新潟を下し、アウェーでの最終節、FC東京戦で優勝を決める算段を立てていた。

「手倉森監督をはじめ、みんなで最後に東京で優勝を決めようと話していました」

 しかし現実は、残留争い中の新潟に0-1でまさかの敗戦。あと一歩で初タイトルには手が届かず、失意に暮れた。スタンドからは温かい拍手が惜しみなく注がれたものの、あの悔しさはいまだに消えない。

「僕は入団会見で『誰が何と言おうと、ベガルタに初タイトルをもたらします』と宣言していましたから。『お前に何ができるんだ』という空気も感じましたが、僕は本気でした。ベガルタでの唯一の心残りは、あそこで優勝できなかったことです」

 14年シーズンの終わりまで仙台では力の限りを尽くした。手倉森監督のもとでハードワークを覚え、人のために走るのも当たり前になっていた。

「仙台に来るまでは自分勝手な選手でしたが、ファン・サポーターのため、仲間のために、動ける選手になりました。人として一番成長させてくれたのは仙台です。いまのアスリート支援の原点になっています」

 古巣であるジュビロ磐田への思いも変わっていた。震災後、ヤマハスタジアムのスタンドに掲げられた「静岡から仙台へ」という横断幕を見たとき、「いつか見返してやるぞ」という考えはすっと消えた。むしろ、「育ててくれたクラブにいつか恩返しがしたい」という気持ちを抱くようになった。

≫≫中編◎「ジュビロで終われて僕は幸せ」

Profile◎おおた・よしあき/1983年6月11日生まれ、静岡県出身。ジュビロ磐田のU-15、U-18を経て、2002年にトップチーム昇格。05年から主力として活躍し、07年には日本代表に初めて招集された。09年7月に契約満了で磐田を退団し、ヨーロッパで半年間テストを受けるが、契約に至らず帰国。10年からベガルタ仙台に加入し、14年までプレーした。15年に当時J2の磐田に復帰し、J1復帰に大きく貢献した。その後も古巣に在籍し、19年限りで現役を退いた。J1通算310試合36得点、J2通算39試合4得点の記録を残した。176cm、72kg


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