1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第25回は古河電工の初優勝と奥寺康彦について綴る。

快進撃を支えた左の奥寺、右の永井

画像: ヤンマーを下して第56回天皇杯に優勝した古河電工(写真◎サッカーマガジン)

ヤンマーを下して第56回天皇杯に優勝した古河電工(写真◎サッカーマガジン)

 古河に戻っても好調を維持し、ライバルに触発された永井も負けじと気迫のこもったプレーで左の奥寺、右の永井で、鎌田監督がこのシーズンに掲げてきた「スピードと激しさ」がグレードアップした。74年ワールドカップを川淵前監督とともに視察した同監督は「サッカーの本質、スピードを生かす、スピーディーな試合展開、次いで激しさ。全員守備、全員攻撃」(サッカーマガジン・77年3月10日号、一部要約)を目指した。ポーランド、オランダのサッカーをイメージしたという。

 開幕から5節まで4勝1分けと好スタートを切り、一時調子を落として第14節終了時点では3位で中断期間に入る。ここでミニキャンプを張って立て直すと、年末年始に行われた天皇杯では攻撃力を発揮して決勝に進む。元日、国立での決勝でも奥寺のゴールなどでヤンマーを4-1で下し、JSL開幕前年の第44回大会以来12年ぶりとなる優勝を果たした。

 1月中旬に再開したJSLでも快進撃は続き、第15節の日立戦で1-0と勝利を挙げ首位に躍り出ると、そこから3連勝。最終戦のトヨタ戦では引き分けでも優勝が決まるという状況となる。やや硬さが出て前半は苦戦したものの、後半に奥寺がPKを決めて均等を破ると、永井のシュートをゴール前で鬼塚忠久がコースを変えて決め、2-0にして勝利をつかんだ。ついにJSL創設以来12年目にして悲願の初のタイトルを獲得。長沼、川淵ら歴代監督が鎌田監督と抱き合って喜んだ。

 奥寺はチーム最多の8得点(川本治も同数)を決め、永井は最終戦のアシストで8とし、単独でアシスト王も獲得した。奥寺の成長は目覚ましく、日本代表の欧州遠征でブンデスリーガ、1FCケルンの名将、ヘネス・バイスバイラーの目に留まり、日本人初のプロプレーヤーへの道が開かれる(文中敬称略)。

著者プロフィール/くによし・よしひろ◎1954年11月2日生まれ、東京出身。1983年からサッカーマガジン編集部に所属し、サッカー取材歴は37年に及ぶ。現在はフリーランスとして活躍中。日本サッカー殿堂の選考委員も務める。


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