不定期連載『ボールと生きる。』では、一人のフットボーラーの歩みを掘り下げる。今回は昨季限りで引退した『太田吉彰』の後編。ジュビロ磐田を退団し、海外に挑戦した経験について綴る。味わった孤独と挫折が太田を選手として、人として大きく成長させた。

上写真=セカンドキャリアも果敢に挑戦していくと語った太田(写真◎山口高明)

≫≫前編◎「震災後に知ったサッカーの力」

≫≫中編◎「ジュビロで終われて僕は幸せ」

文◎杉園昌之 写真◎山口高明、J.LEAGUE

契約を勝ち取る自信を持っていた

 太田吉彰の海外挑戦は、文字どおりのチャレンジだった。無謀と言っていいかもしれない。2009年7月31日に契約満了でジュビロ磐田を退団し、無所属のまま単身でヨーロッパへ。移籍先が決まっていたわけでもなく、特別なコネクションもなかった。

「いくつかテストを受ければ、契約を勝ち取る自信を持っていました。あのときは、絶対に俺はやれるんだと思っていましたから」

 日本の代理人にテストを受けるクラブは探してもらったが、航空券の予約、そして宿泊ホテルなどは自ら手配した。現地での移動も一人で、何とか最初の目的地であるドイツ・フランクフルトへ到着。まずコンビニなどで買い物をして、ひと休みしようと思ったが、その日は日曜日の夜。商店のシャッターがすべて降りていた。

「24時間のコンビニがあると思ったら……。ドイツの事情をまったく知らなくて、いきなり困りました」

 それでも、初めてのヨーロッパ生活。最初の1カ月は楽しく過ごせた。本場の空気を吸いながら、新人時代に戻ったような気持ちでボールを追いかけた。8月下旬にはフランスに足を伸ばし、松井大輔(現横浜FC)がかつて所属したル・マンの練習に参加。約1カ月半、テストを兼ねて2軍でプレーを続けた。

 言葉はほとんど通じなかったものの、アフリカ系の16歳くらいの選手にはお世話になった。毎日のように車で迎えに来てもらった。

「練習場までぶっ飛ばして行くんですよ。スピード違反で捕まるかもしれないと、いつもヒヤヒヤしていました。でも、優しくしてくれたのは記憶に残っています。感謝の気持ちを言葉で伝えられなかったのが残念。契約はできなかったのですが、チームも仲間として受け入れてくれました」

 フランスにはいい思い出が残っているものの、その後は苦労ばかり。次から次にテストを受けることができたわけではなかった。むしろ、練習参加の場所もなかなか決まらず、イライラが募る。

「いつテストがあるか分からないので、常に大きな荷物を持って、移動していました。ホテルは連泊できず、2日、3日で宿を変えていたんです」

 最も苦しんだのは語学。イギリスのクラブでは早口の英語でまくし立てられ、練習で怒られている理由すら分からなかった。そして、正式なテストは待てど暮らせど、受けさせてもらえずに次の国へ。ドイツでは8部リーグのアマチュアクラブで練習した。


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