日本サッカー界で輝いた新旧のミッドフィルダーたちを綴る連載。第3回は「水を運ぶ人」へのリスペクトを込めて印象に残った選手たちを紹介していく。「縁の下の力持ち」だとされる常識を壊してくれた選手とは?

明神智和が8人

画像: チーム貢献度の高い選手、それが明神だった。昨季、長野で現役を引退した(写真は柏時代/J.LEAGUE)

チーム貢献度の高い選手、それが明神だった。昨季、長野で現役を引退した(写真は柏時代/J.LEAGUE)

 別の日本代表監督の言葉を借りれば、フィリップ・トルシエの「8人の明神と3人の個性派がいれば、どんな相手にも勝てる」も、日本サッカーの歴史を彩るパワーワードだ。

 柏レイソルで頭角を現した明神智和は、上背こそないものの、忠実なボール狩りと上下動を厭わないアタックを高度に両立させた頭脳派MFである。そんな「明神的な選手」を揃えれば、チームの土台は出来上がるという算段だった。

 同じようにトルシエに重用された、明神の2学年下の酒井友之も似たタイプの選手だ。こちらは1999年に世界2位の偉業を達成したワールドユース組の一人で、小野伸二や稲本潤一ら黄金世代の「同期」。明神よりはアタック面でより力を発揮した印象がある。

 この2人を揃えた2000年のシドニー・オリンピックでは、トルシエの3-5-2システムで酒井が右アウトサイド、明神が右ボランチでコンビを組んで共鳴し、チームに大きな安定感をもたらしたのを思い出す。

 ちなみに、明神が柏レイソルの、酒井がジェフユナイテッド市原(当時)のアカデミー出身。そのさらに2歳下で同じく「水を運ぶ」タイプの阿部勇樹(現浦和レッズ)も市原の下部組織で育った、という事実は、単なる偶然だろうけれど、この時期の千葉界隈の育成組織が優秀だったことを物語るようだ。明神がガンバ大阪へ、酒井が名古屋グランパス、そして浦和レッズへ、阿部も浦和へ、と、3人とも国内のビッグクラブに見初められて加わり、その歴史に名を残したというキャリアが似ているのも、それだけこの役割を果たす選手が貴重だったことの表れだろう。

画像: Jリーグでは市原のほか、名古屋、浦和、神戸でも酒井友之はプレーした(写真◎J.LEAGUE)

Jリーグでは市原のほか、名古屋、浦和、神戸でも酒井友之はプレーした(写真◎J.LEAGUE)

 トルシエ監督の日本代表でもっと長い間、見てみたかったのは、鹿島アントラーズのボールハンター、熊谷浩二だ。一見すると華奢なのだが、相手の足元に飛び込むスピード感と走力、スタミナは抜群で、前述の北澤と、鹿島の先輩ボランチである本田泰人のハイブリッド型というイメージだろうか。

 熊谷は青森の三本木農高時代は全国的には無名だったが、鹿島の秀逸なスカウトネットワークで引き上げられると、プロ2年目の1995年にU-20代表の一員としてワールドユース(現U-20ワールドカップ)に出場、ゲームキャプテンとして中田英寿、松田直樹らとベスト8入りを果たしている。

 2000年に鹿島の監督となったブラジルのスーパースター、トニーニョ・セレーゾに出会って、その才能が本格的に開花。弾けるようなランニングと決してあきらめない鹿島イズムを全身からほとばしらせ、その年に国内で初めて3冠を達成したチームの中心人物となった。翌年、トルシエ監督によって日本代表候補に選ばれたのだが、度重なる負傷によって継続的にアピールすることができなかったのが本当に悔やまれる。

画像: 熊谷浩二は鹿島で10シーズン過ごしたあと、04年途中から仙台に移りプレーした(写真◎J.LEAGUE)

熊谷浩二は鹿島で10シーズン過ごしたあと、04年途中から仙台に移りプレーした(写真◎J.LEAGUE)


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