創設25周年を迎えたJリーグ。当時を知る記者が四半世紀を振り返っていくこのコラムの4回目は、いまや「日本で最も知名度のある監督」になった西野朗日本代表監督のこと。彼が残してきたJリーグでの足跡を、ちょっと斜めから見返してみると…。
文◎平澤大輔(元サッカーマガジン編集長) 写真◎J.LEAGUE PHOTOS
最後にすべてを否定されたくなかった
「Jリーグで最も多くの勝利を挙げた監督は? また、その勝利数は?」
このトリビアの答え、一日にしてすっかり有名になってしまった。
答えはご存知の通り、「西野朗」「270勝」である。
日本代表監督ヴァイッド・ハリルホジッチの解任劇。日本サッカー協会の田嶋幸三会長が決断した、ロシア・ワールドカップまでたった2カ月というタイミングでの「殿、ご乱心」騒ぎに、愚行だ英断だと相容れない評価が真正面からぶつかり合い、未曾有の混乱が収まらない。
同時に、後任として立った混沌の主役の一人・西野朗という監督を少しでも理解しようと、過去の経歴がさまざまに報じられ、知れ渡るところとなった。
Jリーグにおいてはリーグ戦で一度、チャンピオンに導いている。2005年のガンバ大阪だ。MFフェルナンジーニョと遠藤保仁がおいしいパスをこれでもかと配り倒し、FWアラウージョが33試合33得点という驚異的な得点力を発揮、相棒の大黒将志も16ゴールを挙げるなど、とにかく攻めて、攻めて、攻めてつかんだクラブ史上初のリーグ優勝だった。
このときの印象が特に強いので、西野監督の代名詞は「超攻撃的サッカー」となり、270勝という輝かしい数字もあってJリーグ25年の歴史に名を残した。
「監督」として全国区になったのはその前、1996年のアトランタ・オリンピックでのことだ。U-23日本代表を率いて、グループリーグ初戦で難攻不落のブラジルを破る「マイアミの奇跡」を起こし、日本中を狂喜乱舞させた。ただこの大会では、ブラジル、ナイジェリア、ハンガリーとの力関係から、攻撃サッカーを封印した現実的なスタイルで戦っている。ナイジェリアには敗れハンガリーには勝って2勝1敗の好成績を残したにもかかわらず、グループステージを突破できなかった。
このときのストレスが本来の「攻撃好き」に火をつけたようだ。98年から01年途中まで柏レイソル、02年から11年までガンバ大阪、12年に半年ほどヴィッセル神戸、14年と15年に名古屋グランパス。4つのクラブを率いたが、特に柏とG大阪では攻撃の思想を直接的に表現するチームを作っていった。
この4クラブで524試合を指揮し、PK戦での勝利も含めて270勝だ。そのうち、2得点を奪ったのが94試合、3得点は66試合、4得点は33試合、5得点以上も22試合あって、この複数得点試合の合計215は、全勝利数のうちの実におよそ79.6%にものぼる。点差で見ていくと、2点差勝利は76試合、3点差以上の勝利は52試合で計128試合、全体の47.4%だ。ちなみに、全524試合の総得点は907、総失点785で、1試合平均では得点が約1.73、失点が約1.5という結果が残っている。
05年に自身初のJリーグ制覇を果たしたとき、『週刊サッカーマガジン』のインタビューに答えて「とにかくスタイルを出すことしか考えていなかった。最後にすべてを否定されたくなかった」と感慨深く語っている。首位を快走していたのに最終節直前に3連敗を喫し2位に転落、他の4チームにも優勝の可能性を与えてしまった。しかし、最終節で川崎フロンターレを4-2という“らしい”スコアで叩きのめして優勝をもぎ取ってみせた。「攻撃サッカーの限界」としてあざ笑う周囲に白い目で見られかける中、その苛立ちを日本一という結果で見事に吹き飛ばした快感が、その言葉にこもっている。
鹿島に次ぐ堅実さ
その05年より前に、「ほとんど優勝」となったシーズンがあった。柏を率いてファーストステージ4位、セカンドステージ2位となった00年である。
当時は、ファーストステージとセカンドステージの勝者同士がチャンピオンシップでリーグ優勝を争うレギュレーション。4位と2位だった柏はこの「決戦」に出場する資格を手にすることができなかった。ただ、積み上げた勝ち点を見ていくと、柏は26と32で合計58となり、最終的にチャンピオンになった鹿島アントラーズの55を3も上回って年間最多勝ち点を獲得していたのだ。
つまり、「実質V」である。
このチームは05年のG大阪と比べると、爆発的な攻撃力を誇ったわけではなかった。それは数字によく表れている。05年は34試合82得点で1試合平均得点が2.41だったのに対し、00年は30試合48得点で、1試合平均得点が1.6とおとなしかった。
他方、失点に目を向けると05年が58失点で1試合平均が約1.71、00年は32失点で1試合平均失点は1.07。これでお分かりの通り、00年は平均失点が少ない。
優勝した鹿島の1試合平均失点0.9には及ばないものの、この数字はリーグで2番めに守備の堅いチームだったことを示しているのだ。西野監督は確かに、攻撃こそサッカーの真髄なり、という信念を持ち続けてきた。だが、アトランタ・オリンピックの現実路線を見ても、00年の柏を振り返っても、派手な攻撃的思想をちょっと斜めからのぞいてみると、堅実という名の種をこっそり蒔いておくしたたかさに気づくのだ。
そして、その象徴とも言えるのが、明神智和である。
「2018年の明神智和」
攻め続けることが是のド派手な西野スタイルにあって、この明神という男は対象的に地味だった。といっても、中盤の守備を司るボランチとして、圧倒的な運動量とボール奪取能力、危機察知のセンサーをフル稼働させ、攻めたがりなチームメートの背中を押すプレーは玄人好みだった。
サポーターはその姿に最大級の敬意を表し、「ここにも明神、そこにも明神」と書いたゲーフラを高々と掲げた。日本代表のフィリップ・トルシエ監督も明神をチームの中心に据え、00年シドニー・オリンピック8強、アジアカップ優勝、02年日韓ワールドカップ16強と目覚ましい結果につなげた。「8人の明神と3人の個性派がいれば、どんな相手にも勝てる」とは、トルシエ監督の至言である。
細かいことを言えば、00年の「実質V」のときは西野監督を支えたが、05年の優勝のときにはまだG大阪には移籍しておらず柏の一員だった。それでもその翌年、06年にG大阪の青黒のユニフォームを着て西野監督と再合流すると、またもやボスを支える忠実なドーベルマンのごとく獰猛なボールハンターとなって、08年のアジア・チャンピオンズリーグ制覇に貢献するのである。
というわけで、西野監督のスタイルとは「攻撃的サッカー」ではない。
「自由気ままに感性のおもむくままに喜々として相手ゴールを目指す“攻める人たち”を、上背のない心優しき童顔の明神を中心に据えた“守る人たち”が、踏ん張って送り出すサッカー」なのである。
「西野朗日本代表監督」は5月31日にロシア・ワールドカップに挑む最終登録メンバー23人を発表する考えを示した。そこで、「2018年の明神智和」の役を誰に託すのだろうか。
蛇足だが、明神は40歳となった現在、J3の長野パルセイロでプレーする現役選手である。4月15日には、かつて「守る人」として共闘した宮本恒靖が監督として率いる古巣G大阪のU-23チームとリーグ戦第7節を戦い、フル出場して1-1の引き分けに大きく貢献している。まったく、脱帽である。