9番の快感に目覚め始めた
高校を中退して渡ったブラジルで頭角を現したのは、まずウイングとしてだ。DFと向き合ってボールをまたぎ、相手のバランスを崩して抜け出し、中央にボールを送る。あるいはカットインして強烈なシュートを放つ。当時のサッカーのサイドにはまだ、1対1の抜き合いと止め合いを演じるスペースがあった。名門サントスの白いユニフォームを身につけた11番はしなやかな子鹿のようだった。
90年のカズの帰国当時、4年後の米国ワールドカップを目指す日本代表は点取り屋を欠いていた。アジア大会で初めてカズを日本代表に招集した横山謙三監督は、カズの役割を問われて「ストライカー」とはっきりと口にしている。
92年、初の外国人として日本代表監督に就任したハンス・オフトは中山雅史(ヤマハ)、あるいは高木琢也(サンフレッチェ広島)とペアを組ませて、よりゴール前での仕事を求めた。
帰国当時、V川崎の前身の読売クラブには、FW武田修宏の後方に、ともに日本リーグ得点王経験のある戸塚哲也、北澤豪らがいた。パスの配給役にラモス瑠偉、のちにブラジル代表MFビスマルク。テクニシャンそろいで、一様に「ボール触りたがり」。ボールに触れてリズムをつかむタイプのカズは、その中で独特のフェイントと勝負強さでエースの座をつかんでいる。
日本代表でもカズは多くのボールタッチを求めた。ときにMFの位置まで下がって「10番」の立ち振る舞いをした。横山はある程度放任したが、オフトは違った。カズの個性を尊重しながらも、中盤に下がることを禁じる。カズのストロング・ポイントを問われて「ゲームを決める力」と答えたのはその要求の証だ。
やがて規律重視のオフトの下で、カズは「9番」の快感に目覚め始めた。反発は胸にしまった。自分が決めるべきところで決めれば結果がついてくることを、オフトのチームは示していた。そして最大の目標であるワールドカップに向けて自分に課せられたものが、ボールにより多くさわり、フェイントでスタンドを沸かせることではないことに気づいたからだ。