1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第10回は得点を導くプレー以外に光を当てるべく導入されたアシスト制度について綴る。

写真は1966年の第2回JSL、東洋工業対三菱重工(1-0)。ボールを持っている選手は、数年後にアシスト王となる三菱重工の杉山隆一(写真◎BBM)

文◎国吉好弘 写真◎BBM

初代アシスト王は桑原隆幸

 Jリーグでは採用されていないが、日本リーグ(JSL)の時代には、得点となったシュートの前のプレーに「アシスト」をつけていた。JSL2年目の1966年3月29日に行なわれた評議会で以下の事項が決定された。

「1966年度のリーグの試合を記録する際にアシスト制を採用し、得点があった際に必要と思われる場合は得点者以外の者にアシストを認め、アシスト点1点を与え、試合記録に記入する。ただしこのアシストに関する記録は参考記録として報道関係者に発表する」(機関紙「サッカー」56号)

 これは、得点者だけがクローズアップされるのではなく、その前のプレーにも注目してもらおうと、加盟8チームの代表と、日本協会の竹腰茂丸理事長など3人の理事によって構成される評議員会によって提案され、実現の運びとなった。そのアイディアは、当時すでに「アシスト」を記録していたアイスホッケーからヒントを得たものと言われている。

 具体的には「アシストは得点があった場合、その得点のために行なわれた直接のプレーに関係した者にのみ認められる。またそのプレーは得点となるまでのプレーのうち、得点からさかのぼって2つ以上前のプレーには認められない」と規定された。

 例えばスルーパスで抜け出してのシュートが決まったときのスルーパスを出した選手、クロスをヘディングで決めたときのクロスを上げた選手、シュートが一度GKに阻まれたこぼれを押し込んだ場合の初めにシュートを打った選手などにアシストがつく。また、クロスが上がり、これをヘディングで落としたボールをシュートして決めた場合には、クロスを上げた選手とヘディングをした選手の二人にアシストがつくと定められた。

 こうして始まった66年JSLでは、優勝した東洋工業のMF桑田隆幸が8アシストを記録して、第1回のアシスト王となった。アシスト王にはこの第1回から日刊スポーツ紙によって「シルバーボール賞」(得点王にはゴールデンボール賞)が贈られた。

 前記のように当初「参考記録」と但し書きがあったものの、形として残る賞になったことで公式な記録となった。そしてJSLが終了する92年まで続けられることになる。

二代目は川淵三郎

 1967年の第3回JSLでアシスト王に輝いたのは川淵三郎(古河電工)、のちのJリーグチェアマンだった。翌68年には、この年のメキシコ・オリンピックで銅メダルを獲得した日本代表でも、多くのゴールをアシストした杉山隆一(三菱重工)がJSLでも初のアシスト王となり、翌年も連続で受賞した。

 その後も宮本輝紀(70年、八幡製鉄)、吉村大志郎(72年、ヤンマー)、今村博治(75年、ヤンマー)、永井良和(76年、77年、81年、古河)、ジョージ与那城(79年、80年、83年、読売クラブ)などが受賞。自ら得点を挙げるよりMF、あるいはウイングとして、ゴールをお膳立てする選手にスポットが当てられた。

 ただし、26年の通算で最も多くのアシストを果たしたのは、得点数でも断トツ1位(202得点)の釜本邦茂で79アシストだった。釜本は特別として、2位は永井、以下3位ラモス瑠偉(読売ク)、4位与那城、5位吉村とパサー、あるいはクロサーが並び、そういった役割の選手に喜び、やりがいを与えたと言える。

 アシストは現在のJリーグでもさまざまなメディアが独自の規定で記録しており、ヨーロッパでも同様に新聞、雑誌でカウントしている国もある。FIFAでもワールドカップでの得点にアシストをつけており、統一した世界基準を設けて広めてもよいのではないだろうか。

著者プロフィール/くによし・よしひろ◎1954年11月2日生まれ、東京出身。1983年からサッカーマガジン編集部に所属し、サッカー取材歴は37年に及ぶ。現在はフリーランスとして活躍中。日本サッカー殿堂の選考委員も務める


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