1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第36回はJSL誕生につながる提言について綴る。

上写真=1967年のデットマール・クラマー来日時に撮影。左から長沼、クラマー、岡野、平木。場所は赤坂プリンスホテル(写真◎サッカーマガジン)

文◎国吉好弘

最も重要だった全国リーグ創設

 コロナ禍にさまざまな問題を抱えながら開催された東京オリンピックだが、選手たちの真剣なプレーは過去の大会と同様に感動を呼び起こした。サッカーでは男女とも目指したメダルには手が届かなかったが、選手たちの真摯に取り組む姿勢は映像を通して伝わってきた。24歳以下の代表が臨んだ男子は準決勝まで進み、ここでスペインに延長の末力尽きて決勝進出はならず、3位決定戦でもメキシコに敗れて1968年メキシコ大会以来のメダルを獲得を逃した。それでも53年前は取れると考えられていなかった中での快挙だった一方で、今回ははじめから頂点を目指し、周囲も期待する中での敗退で、取り巻く状況はかつてとは大きく異なっていた。

 1968年メキシコ・オリンピックでの銅メダル獲得は、その4年前に行なわれた東京オリンピックのために実施されたさまざまなチーム強化や環境の整備がもたらしたものだった。64年の東京では目標のベスト8を達成。そのチームはまだ若く、海外遠征を継続して行うなどさらに強化が進められたことがメキシコで実を結んだ。国内でも全体のレベルアップのためにいくつかの改革が行なわれた。その中でも最も重要だったのが全国リーグ、日本サッカーリーグ(JSL)の創設だった。

 海外遠征の継続も、全国リーグの創設も、日本代表強化のために招いたドイツ人コーチ、デットマール・クラマーによる「4つの提言」に示されたことだった。クラマーは「日本サッカーの父」とまで呼ばれる人物で、日本協会の要請にドイツサッカー協会が応え、派遣された。ドイツでも有数の優れた指導者で、日本代表の技術、戦術を一から鍛え直し、国際試合に挑む心構えを説いた。それだけではなく日本サッカーの成長のために普及、環境整備にも取り組んで各方面から信頼を得た。東京大会での目標を果たし、帰国する際に残したのが「4つの提言」だった。

 蛇足ながら、これまでは「5つの提言」とされることが多かったのだが、日本サッカー協会100年史を編纂する過程において「4つ」に改められた。これはそもそも当時の協会機関誌に「5つの提言」として掲載されたためにそれが受け継がれてきたことに由来しており、初来日の時からクラマーの通訳を務めてきた岡野俊一郎(第99代JFA会長)は常々「4つ」だったと指摘していた。

 5つとされた提言のうち、二つ目の「良いコーチを育て、彼らが日本の一流チームを指導すること」、四つ目の「コーチ(指導者)の組織を確立すること」は一つの項目だったという。クラマーがこの提言を話した送別会でのスピーチも岡野がその場で通訳しており「ボクが訳していたのだから間違いない」という言葉に疑いの余地はなく、「良いコーチを育てる、そのための組織を確立する」と、一つの項目として成立する。


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