まとまりがあるチームへと成長
Jクラブアカデミーのチームと高体連のチームとの力の差は歴然だった。高体連のチームが組織力で粘り強く戦おうとしてもなかなか難しく、J クラブアカデミーからプロ入りすることになる選手のワンプレーで勝敗が決する試合が数多くあった。
東山高校の戦い方自体も、勝てなかった理由の1つかもしれない。
「プレミアリーグに残留したかったですけど、それ以上に、選手権に出たい気持ちがありました。プレミアリーグは45分ハーフですが、選手権は40分ハーフ。ですから、プレミアリーグの試合でも、『40分ハーフだと思って頑張れ』と言っていました。『ラスト5分とか10分で追いつかれてもいいから、負けてもいいから』とハッパをかけていました。
残留を目指して勝ち点1でも拾うサッカーをやっていたら、もう少しうまく戦えたかもしれません。とにかく前から行かせた結果、大量失点の試合が多くなりました」(福重)
当時の大地は、「プレミアリーグでも戦えないわけではないと感じています」と話していた。しかし、京都橘高校に辛勝したあとは、ほとんど勝てなかった。
「京都橘には、毎年やりたいことをやられています。僕らは負けるのが怖くて、シンプルなプレーばかりしているけど、そのままでは東山として変われません。いつか変わらなければいけないし、それなら、僕らの代で変えたいです」
そう考えた大地は、4バックから3バックへのシステム変更と自身のボランチ転向を福重に直談判した。福重は、チームのことを第一に考えて必死に取り組んできた大地の意見に耳を傾けた。大地の要望に応じたが、受け入れない部分もあった。
大地はピッチ外での取り組み方を見て、「この選手はダメだから、外してほしい」といったことも伝えてきたが、選手起用に関する希望には一線を引いた。「ダメなら、お前がなんとかしろ」と返し、キャプテンとしてのさらなる自覚を促した。
大地は、サイドハーフでプレーするなど、試行錯誤を繰り返していたが、それでもリーグ戦18試合で10ゴールをマークした。これは、得点ランキング4位の数字。のちに「選手権に出ていたら、得点王になれたと思います」と口にするほど、大地は自身のプレーに手応えを感じていた。
中村は、当時の大地のプレーについて、こう話す。
「チームはなかなか勝てませんでしたが、大地のパフォーマンスはずば抜けていました。勝てないから何かを変えるのではなく、やってきたことを常に徹底してやり続けようとしていました」
最終的に、東山高校はプレミアリーグでわずか2勝しかできなかった。しかし、キャプテンには不向きと思われていた大地を中心に、まとまりがあるチームへと成長した。
「大地の技術や努力をみんながリスペクトしていました。大地以上に努力している子もいましたが、大地がそれを見習ってさらに努力するのをみんなが見ていました。チームがバラバラになるようなことはありませんでした」(福重) <続く>
文◎森田将義