上写真=1996年の夏、高校3年時のインターハイでプレーする中村俊輔。高校入学後の成長で、すでにプロ注目の存在となっていた(写真◎サッカーマガジン)
文◎石倉利英
高校1年生のとき、3年生に言われた言葉
俊輔が現役生活に別れを告げた。プロ生活26年。横浜FCの公式ホームページに掲載された出場歴の表組が大きくて、その下にある本人のコメントまで長く画面をスクロールしなければならないところに、あらためて20世紀末からの長いキャリアを感じる。
1999年に週刊サッカーマガジンの横浜F・マリノス担当になった筆者は、何度か俊輔にインタビューする機会があった。のちにセルティック時代、スコットランドまで出向いて話を聞いたこともあるが、強く印象に残っているのは、最初に横浜F・マリノスに在籍していた時期のインタビュー。1999年か、2000年の年末だった。
これまでのサッカーキャリアを振り返ってもらう過程で、高校時代の話になった。日産FC(横浜マリノス)ジュニアユースからユースに昇格できず、桐光学園高(神奈川)のサッカー部に進んだことは、俊輔が味わった挫折の一つとして知られているが、高校1年生のとき、その後につながる反骨精神の原点となる出来事があったという。
入学後、全体練習後も毎日のように遅くまでグラウンドに残り、レベルアップに励む日々。そんなある日、先に帰ろうとする3年生の先輩から大きな声で、からかうように言われたそうだ。
「そんなことやっても無駄だぞ、と言われたんだよね」
悔しさをかみ締めながら、見返してやろうと練習を重ねたと言っていた。先輩も嫌な人ばかりではなく、いつも居残り練習に付き合ってくれる一人の3年生の話も。クラブの広報担当者が終了予定の時間を過ぎても姿を見せず、俊輔も懐かしくなったのか話が止まらなくなって、1時間半に及ぶロングインタビューとなった。
高校3年間で大きく成長して横浜FMからオファーを受け、プロ選手になってからのキャリアは、ここで振り返るまでもない。横浜FMに復帰した後の2013年、試合後に話を聞いたときは「もう残りのキャリアも長くないから、やり切りたいんだよね」と言っていた。当時35歳だったことを思えば、そんなことを考えてもおかしくなかったが、その後もジュビロ磐田、横浜FCと所属クラブを変えながら、さらに10年近く現役生活を続けた。
二度もJリーグMVPに選ばれたのに、ついにJ1優勝は果たせなかった。長く日本代表の中心選手として活躍しながら、ワールドカップでは輝けなかった。悲運のイメージもあり、もちろん悔しさはあるだろうが、公式ホームページに掲載されているコメントを見れば、俊輔も最後までやり切った、素晴らしいキャリアだったと感じているのではないか。
引退後に何をするのか、本人のコメントには記されていない。指導者になるのかもしれないが、それなら高校のサッカー部に携わるのはどうだろう。Jクラブのジュニアユースからユースに昇格できず、高校のサッカー部に進む選手は、いまも多い。俊輔だからこそ、挫折を経てプロを目指す若者に「この練習をやっていれば、決して無駄にはならないよ」と言えるのだから。