サッカー史に残るクラブや代表チームを「世界遺産」に登録していく今連載。第40回は、新興勢力から強豪へと進化した大国ドイツのクラブを取り上げる。稀代のスター選手を各所に配し、無類の勝負強さを誇った60年代後半から70年代にヨーロッパを席巻したバイエルンだ。

上写真=バイエルンは74年から76年までチャンピオンズカップ3連覇を達成した(写真◎Getty Images)

文◎北條 聡 写真◎BBM、Getty Images

成り上がる新興勢力

 その昔、ドイツの代名詞と言えばリベロシステムだった。

 最後尾でエースキラーを従えたリベロが機略縦横に攻守のタクトを振って、全軍を動かしていく。彼こそ全能のマエストロ。まごうことなきチームの頭脳だった。このシステムの始祖をたどれば1970年代のバイエルン(西ドイツ=当時)に行きつく。従来の枠組みに収まらない破格のリベロを擁していたからだ。

 その人こそ、フランツ・ベッケンバウアーである。

 通り名はカイザー。皇帝という意味だ。そして脇を固める面々が偉大なリベロを守り、盛り立て、ドイツ勢初のヨーロッパ王者へと上り詰める。それが皇帝と不屈の近衛隊から成る最強バイエルンの黄金時代だった。

 いまやバイエルンはドイツ随一の名門である。だが、1960年代の半ばまでは数ある新興勢力の一つに過ぎなかった。何しろブンデスリーガの歴史に登場するのは3年目からだ。当時は本拠地のミュンヘンに圧倒的な人気を誇る老舗クラブがあった。1860ミュンヘンだ。

 だが、驕る平家は久しからず。バイエルンは育成に手を抜く老舗を尻目に地元の才能ある少年たちや他クラブの有望株をかき集め、着実に力をつけていた。事実、昇格2年目にヨーロッパ3大カップの一つであるカップウィナーズカップを制覇。その2年後の1969年5月にはブンデスリーガで初優勝を飾り、国内屈指の強豪にのし上がった。

 礎を築いたのはズラトコ・チャイコフスキーだ。このクロアチア出身の指導者はユース部門の若手を次々とトップに吸い上げ、主力の一角に育て上げていく。あのベッケンバウアーも、その一人だ。もっとも、その起用法には「才能の浪費」という手厳しい批判もあった。代表で中盤の一角を占めるほどの逸材を最終ラインで使ったからである。

 最大の理由は後ろの人材不足にあった。守りが安定せず、天才のマルチな能力に頼るほかなかったわけだ。それが思わぬ副産物をもたらすのだから、分からない。苦肉の策が言わば、革新の引き金だった。そこから斬新なリベロシステムが生まれ、バイエルンの伝説が幕を開けることになった。

攻守に自由に立ち回る真のリベロ

 ベッケンバウアーが試みたのはリベロ(自由人)というイタリア式スイーパーの再定義だった。従来のリベロは最後尾で味方のカバーに徹する守備の人だ。特定のマークを持たないという意味での自由人でしかなかった。

 ベッケンバウアーが最終ラインで務めた役割も当初はアウスプッツァー(掃除人)だった。ドイツ式スイーパーのことだ。ボールを回収しては蹴り返す。それだけの仕事に天才は「すぐに飽きた」という。あり余るほどの才能がバックラインに留まることを許さなかった。

 何かできないか。そこでヒントを得たのがフルバックの攻め上がりである。格好の見本があった。超攻撃的レフトバックとして鳴らすインテル(イタリア)のジャチント・ファケッティだ。あの大胆な攻撃参加をピッチのド真ん中で試みてはどうか。その冒険心が、攻守両面で自由に立ち回る真のリベロ(自由人)を作り上げることになった。

 もっとも、フルバックのように敵陣へ一目散に攻め上がったわけではない。最後尾から中盤、さらに前線へとラインごとに進出していく。言わば、各駅停車だ。後ろでパスを回しながら、中盤の底に上がってボールを受ける。そこから前方の味方にパスを散らし、好機と見れば、さらに前線へ踏み込んでいく。それどころか、しばしばゴールまで奪った。

 止まるのか、進むのか、下がるのか。戦況を見抜く戦術眼がずば抜けていた。掃除人から司令塔、さらに襲撃者から点取り屋へ転じる「三段変身」に、守備側はただただ翻弄されるばかりだった。

 そもそも当時は相手のリベロが攻め上がってくることを想定していない。しかも、マンマーキングが主流の時代である。あらかじめ各々のマークする相手が決まっていた。しかし、リベロは「余った選手」だから、相手側にもマークする選手がいないのだ。

 聡明なる皇帝がこの利点を逃すはずもない。マンマーキング方式の死角をも突き、まったく新しいゲームの支配者となった。革新者に先導されたバイエルンは1971年開幕のシーズンからブンデスリーガ連覇を達成。あとはヨーロッパの覇権を手に入れるだけだった。


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