前後2つのトライアングル
バイエルンの最盛期と言えば、1974年である。リーグ3連覇とチャンピオンズカップ初優勝のダブル(二冠)を成し遂げた。西ドイツが自国開催のワールドカップで優勝した記念すべき年でもある。隣国オランダとの決勝でスタメンに起用されたバイエルンの面々は6人。イレブンの過半数を占める最大勢力だった。
このうち5人が中央を貫く縦のラインの要人たちだ。バイエルンの心臓部を代表チームにそっくり転用したわけである。
最大の特徴はベッケンバウアーを基点とする前後2つのトライアングルにあった。後ろでは守護神のゼップ・マイヤーとストッパーのハンス=ゲオルク・シュヴァルツェンベックが皇帝と巧みに連係し、強力な盾となった。この3人はいずれもバイエルンのユース育ちだ。若い頃から苦楽をともにして、それぞれの特徴を知り尽くす間柄。あ・うんの呼吸で敵の攻撃を封じ込めた。
異彩を放ったのは前方(攻撃)のトライアングルだ。形や大きさを伸縮自在に変えていく。前線のゲルト・ミュラーと中盤の前寄りに構えるウリ・ヘーネスが最後尾の皇帝と密接にリンクしながら、鋭く敵のゴールに迫った。
攻撃の基点は広角に放つベッケンバウアーの華麗なショットガンパスだ。これで一気に中盤を通過してしまう。それこそアメリカンフットボールのクォーターバックに近い役回りだった。右足のアウトサイドにボールを乗せるミドルパスは典雅の一語。また、ロングパスにバックスピンをかけて味方の鼻先に落とす芸当も皇帝ならではと言えた。
この多種多様なパスを引き出すレシーバー(受け手)がミュラーとヘーネスになる。ただ、2人の役割は微妙に違っていた。ミュラーはポスト役だ。バックラインの手前につけるパスを斜めに落とし、ヘーネスが拾って縦に斬り込んでいく。相手ストッパーがミュラーに釣り出され、ゴール前にスペースがあるからだ。
一方のヘーネスはバックラインの裏へ走り込んで受け手になる。アメフトで言えば、タッチダウンパスのレシーバーだ。縦にボールを持ち出す速さと推進力に優れ、2列目から果敢にゴールを強襲するミュラーの「影」だった。
初のヨーロッパ王者へ駆け上がるチャンピオンズカップ決勝でも2人の受け手が躍動した。各々が2点を奪い、アトレティコ(スペイン)の堅陣を鮮やかに破ってみせる。黄金時代のハイライトとも言うべきファイナルだった。
史上最高の点取り屋
バイエルンの進撃は止まらなかった。他国の刺客を退け、チャンピオンズカップ3連覇を成し遂げる。1976年5月のことだ。
ヨーロッパ最強クラブの称号を3年連続で手に入れたクラブは、ほかにレアル・マドリード(スペイン)とアヤックス(オランダ)しかない。当時のバイエルンが、いかに特別だったかが分かる。
ただ、派手な印象は薄い。ベッケンバウアー以外は職人肌の地味な選手が多かった。1974年の夏に異端児パウル・ブライトナーがレアルに移籍すると、攻撃力が低下する。この才能豊かなレフトバックの神出鬼没の動きが貴重な攻め手になっていたからだ。
両翼の人材に乏しく、中盤にも皇帝に次ぐ「第二の司令塔」がいない。最終ラインの手前に陣取るフランツ・ロートはエース殺しに徹するヒットマンだった。それでも、したたかに勝ち上がったのはミュラーという決め手を持っていたからだ。この人こそ、デア・ボンバー(爆撃)の通り名で知られる史上最高の点取り屋と言ってもよかった。
小柄でガニ股。特別速いわけでも、高いわけでも、強いわけでもない。驚くような技術(うまさ)を誇るわけでもなかった。ミドルレンジからの強烈な一撃もない。シュートを打つのは常に守備者が群がるボックスの中だ。それでも体半分、頭一つ分、いや足のつま先をねじ込める隙間さえあれば、必ず点を取った。
ボールの行方を読み当て、転がる場所に先回りする。シュートの大半はワンタッチだ。体のどこに当たったのか判然としないゴールも少なくなかった。止めて蹴るのも恐ろしく速い。早撃ちのプロ。まるで、すご腕のガンマンだった。
ブンデスリーガの得点王は通算7回。総得点が試合数を上回ったシーズンが三度ある。チャンピオンズカップ出場は通算6回だが、総得点が試合数を下回るシーズンはわずか一度しかなかった。
とにかく、点は取る。泥臭くても不格好でも必ず取る。だから、バイエルンの面々にはブレがなかった。困ったらボールをボックス内に送り込めばいい。その一点でまとまることができた。
「あの時代に数多くのタイトルを手にすることができたのも、彼がいたおかげだ」
ベッケンバウアーは後年、そう振り返っている。古今に2人といない珍しい点取り屋がバイエルンの伝説を鮮やかに彩っていた。