1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第34回は3人の得点王が同時に誕生した1990-91シーズンについて綴る。本田技研の北澤豪はMFながら思い切りの良さでネットを何度も揺らし、栄誉を手にした。

上写真=本田技研の北澤豪。90-91シーズンの得点王に輝いた(写真◎サッカーマガジン)

文◎国吉好弘 写真◎サッカーマガジン

リーグは読売クラブが独走

 1993年のJリーグ開設が決まり、ラスト2シーズンとして迎えた1990-91シーズンの日本リーグ(JSL)は、前シーズンまで2年連続でリーグばかりか天皇杯、JSLカップも制した日産自動車が3連覇を果たすのか、他チームがそれを阻止するのかが焦点だった。

 プロリーグへの移行を見据えて、特にJリーグ参加を目指すチームは強力な補強を敢行し、接戦が予想された。ふたを開けると日産が開幕から5戦も勝利を挙げることができずに躓いたこともあり、読売クラブが開幕戦の快勝(○4-0 NKK)で首位に立ったまま走り続ける。最後は3節を残して優勝を決めるリーグ始まって以来最速の戴冠を果たした。

 結果的には読売クの独走となったリーグだが、タイトル争いとは逆に大混戦だったのが得点王レースだ。優勝を果たした読売クの戸塚哲也、3連覇は逃したが終盤に追い上げて2位につけた日産のレナト、そして3位に躍進した本田技研の成長株、北澤豪の3人が最後まで争い、結局3人とも10得点で並んで得点王を分け合った。

 26年目を迎えたリーグで、これまで2人が得点王となったことは1978年に釜本邦茂(ヤンマー)とカルバリオ(フジタ)がともに15得点で並び、一度だけあったが、その時以外は毎年1人が頂点に立っていた。それがこのシーズンは3人が同点でトップに並ぶという珍しい記録達成となった。

 10点という、1983年にラモス・ソブリィーニョ(読売ク、後のラモス瑠偉)が得点王となったときと並んで過去最少の得点数だったことは3人の得点王が生まれた要因の一つだろう。全体的に得点が少なく、レナトは前シーズンにも得点王となっているが、17点を挙げており、戸塚も84年以来の得点王で、その時は14点を決めていた。

 得点王にはなったものの、22試合を戦って出した数字としては物足りなかったかもしれない。ただ、その中で称えられるのは北澤の受賞だ。ポジションも前線でプレーするストライカーではなく、攻撃的なMFとして中盤で動き回り、チャンスを作り出すとともにゴール前にも進出して得点を狙った。チームも常に優勝を争っていた日産や読売クのような強豪ではなく、優勝経験はなく、このシーズンもタイトル争いに絡むとは予想されていなかった本田。チームとしても、初めて得点王を輩出だった。北澤の活躍もあって、本田は最終的に85年と並ぶ最高成績を残した。


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