1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第34回は3人の得点王が同時に誕生した1990-91シーズンについて綴る。本田技研の北澤豪はMFながら思い切りの良さでネットを何度も揺らし、栄誉を手にした。

日産のレナト、読売クの戸塚を一時は突き放す

画像: 左は本田技研に所属していた北澤豪、右端は読売クラブのカズ(写真◎サッカーマガジン)

左は本田技研に所属していた北澤豪、右端は読売クラブのカズ(写真◎サッカーマガジン)

 このシーズンは1990年10月24日に開幕して第6節を終えた時点で、天皇杯などの日程が組み込まれて中断するのだが、ここまで北澤は3点を挙げてレナトなど6人と並んでトップに立っていた。91年1月の再開からも好調を維持し、第8節の読売ク戦、10節のヤンマー戦でゴールを挙げると、12節の三菱戦で1-0の勝利の決勝点を決め、ここから3試合連続ゴール。さらに1試合をはさんで16節の松下戦で2-1の決勝点、続く17節のNKK戦でも2-0の勝利の先制点を決めるなど6試合で5ゴールの活躍。チームも6連勝で2位に浮上している。

 この時点で北澤は10得点に達し、これに続く読売クラブの武田修宏が8得点、戸塚とレナトはまだ7点と3点の差をつけていた。ところが、ここから失速し最後の5試合では無得点。ここで3ゴールずつを挙げた戸塚、レナトに追いつかれてしまう。チームもここで1勝2分け2敗、日産に抜かれることになる。

 とはいえ、単独での得点王こそ逃したが歴代得点王の一人として名選手に肩を並べ、このシーズンの活躍で日本代表にも選出された。修徳高校時代から、中学まで過ごした読売ク・ジュニアで磨いたテクニックには定評があったが、本田入りして5年目、前年のブラジル留学、前々年のドイツ留学などでフィジカルの強い相手との駆け引きも身に着けて大きく成長した。

 ゴールはどれもそのプレーぶりにふさわしい小気味の良いものばかりだった。北澤のゴール量産について筆者は当時のサッカーマガジンに「特筆されるのはシュートの思い切りの良さだ。チャンスと思えば間髪入れずにゴールを狙う。ダイレクト、ボレー、体を投げ出してもシュートする。そのため北澤のゴールには目を見張らされるものが多い」(1991年5月号)と書いた。「決定力不足」を嘆くチームが多い昨今(昔からだが)、この時の北澤のプレーは大いに参考になるだろう。

著者プロフィール/くによし・よしひろ◎1954年11月2日生まれ、東京出身。1983年からサッカーマガジン編集部に所属し、サッカー取材歴は37年に及ぶ。現在はフリーランスとして活躍中。日本サッカー殿堂の選考委員も務める。


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