1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第33回は読売クラブがJSLで初優勝、そして連覇を飾った際の立役者、ルディ・グーテンドルフについて綴る。

最初はジョージ、ラモスが反発

画像: 主力の一人ルイ・ラモス(当時)。ブラジルスタイルを生かしつつ、新監督のもとでプレーの幅を広げていった(写真◎サッカーマガジン)

主力の一人ルイ・ラモス(当時)。ブラジルスタイルを生かしつつ、新監督のもとでプレーの幅を広げていった(写真◎サッカーマガジン)

 グーテンドルフは84年シーズンを前に監督に就任すると、チームに欠けていると見たGKに当時のユーゴスラビアからヴィエラン・シィムニッチ、前線にはスコットランドから190センチの長身FWスティーブン・パターソンを加えた。そしてドイツ人らしく組織戦術と規律を植え付けていく。

 これまで、ジョージ与那城、ルイ・ラモス(のちのラモス瑠偉)を中心にブラジルスタイルでプレーしてきた選手たちからは反発もあったが、百戦錬磨の指揮官らしく、「昨年と同じようなオフェンシブなサッカーを目指し、より相手が驚くようなプレーで成果をもたらしたい」と語り、それまでのスタイルは維持して、そこに新しいオプションを加えるというチーム作りをした。

 シーズン途中でまは苦しみながらも、パターソンの高さを使う術も身に着けたチームは終盤に盛り返してリーグ連覇を達成。天皇杯でも念願だった初優勝を果たして見事二冠を獲得した。選手たちも一流の監督から学ぶべきことを理解し、後に与那城も「グーテンドルフは選手の使い方がうまかった」と『読売クラブ~ヴェルディの40年』の中で振り返っている。

 95年も6月から7月にかけて行なわれたJSLカップに優勝して国内タイトルを3連続で制覇したが、この年は86年メキシコ・ワールドカップ予選でに日本代表が勝ち抜いて、韓国との最終決戦まで持ち込む。最後はホーム、アウェーとも敗れてメキシコへの切符は逃すことになるが、主力の多くを送り込んでいた読売クと日産はともに選手たちの疲労でリーグでは不振に陥ってしまう。そんな事情もあって当初の2年契約は更新されず、ちょうど母国のヘルタ・ベルリンからのオファーもあったようで、グーテンドルフの日本での挑戦は2年で終了した。

 在日時はサッカーマガジンにも「グーテンドルフの東方見聞録」というコラムを持ち、ヨーロッパのトップレベルの指導者の考えと独自の理論を展開した。連載の最後には韓国に敗れた直後という背景もあり、プロ化の必要性を強く訴えていた。

 日本を去った後もすぐにヘルタの監督となり、さらにはガーナ代表、ネパール代表、フィジー代表、中国とイランのオリンピック代表なども指揮し、世界を股にかけて手腕を発揮した。指揮したチーム数と国の数は記録としてギネスブックにも掲載された。

 2019年に93歳の生涯を閉じたと伝えられたが、Jリーグの誕生や日本代表のワールドカップ出場を世界のどこかで喜んでいてくれていただろうか。

著者プロフィール/くによし・よしひろ◎1954年11月2日生まれ、東京出身。1983年からサッカーマガジン編集部に所属し、サッカー取材歴は37年に及ぶ。現在はフリーランスとして活躍中。日本サッカー殿堂の選考委員も務める。


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