フランツ・ベッケンバウアーが今月7日に亡くなった。現役時代は旧西ドイツの代表として活躍し、1974年に主将としてワールドカップ(W杯)で優勝を果たす。1990年には監督としてカップを掲げたサッカー界のレジェンドだった。革新的なフットボーラーの足跡を振り返る。

上写真=1974年のW杯でベッケンバウアーは西ドイツ代表のキャプテンを務め、ヨハン・クライフ率いるオランダ代表を決勝で下して優勝した(写真◎Getty Images)

文◎北條 聡

強いものが勝つのではない。勝ったものが強いのだ

 サッカー史に燦然と輝くドイツの巨星フランツ・ベッケンバウアー氏が1月7日(現地時間)に亡くなった。78歳だった。ドイツ・サッカー連盟が8日に発表。死因は明らかにされていない。現地メディアの報道によると、近年は健康上の問題を抱えていたようだ。最後は家族に見守られながら、静かに息を引き取ったという。

カイザー(ドイツ語で『皇帝』の意)の異名にふさわしい偉大なカリスマだった。何しろ、選手と監督の双方でワールドカップ制覇の偉業を成し遂げている。ほかにブラジルのマリオ・ザガロ氏(故人)と現フランス代表のディディエ・デシャン監督の2人しかいない。また、クラブでは選手時代に西ドイツ(当時)随一の強豪バイエルン・ミュンヘンに在籍し、欧州チャンピオンズカップ(現チャンピオンズリーグの前身)で3連覇に導いている。代表でもクラブでもキャプテンとして絶大な力を誇った生粋の統率者だ。

 もっとも、最大の功績は未来を先取りする革新にあった。最後尾で特定のマークを持たず、カバーリングに徹してきた守備専門のスイーパーというポジションに「攻撃」の概念を持ち込んだ。最後方から華麗にパスを散らし、隙あれば前線まで攻め上がる。1960年代に攻撃的サイドバックの先駆けとなったイタリアのジャチント・ファケッティのプレーに着想を得て、守り一辺倒ではない独自のポジションを編み出した。それが『リベロ』である。本来はイタリア式スイーパーの呼び名だが、そこには「自由人」の意味があり、型にハマらぬ皇帝の振る舞いこそ、真の自由人と呼ぶにふさわしいものだった。

攻撃は最後尾から――とはモダンフットボールの常識だが、そのコンセプトの出発点をたどると、およそ50年前(=1970年代)の皇帝に行き着くことになる。ただ、西ドイツの隣国オランダにも同じ発想に基づき、斬新なフットボールを演じる一団があった。鬼才ヨハン・クライフを擁する強豪アヤックスだ。9番(=センターフォワード)のポジションを担ったクライフは逆に最前線からカイザーのごとき企みを試みている。事実、最後尾まで下がり、司令塔として立ち回るケースがしばしばあった。この型破りな『空飛ぶオランダ人』こそ、皇帝と激しく火花を散らした宿命のライバルと言っていい。

物語のクライマックスは西ドイツで開催された1974年のワールドカップ決勝。劣勢と目されていた西ドイツがオランダに2-1と競り勝ち、カイザーが高々と優勝カップを掲げている。試合後に『強いものが勝つのではない。勝ったものが強いのだ』との名言を残した。この年は欧州チャンピオンズカップも制していたが、バロンドール(欧州年間最優秀選手賞)の受賞を逃し、「これ以上、私は何をすればよかったのか」と嘆いた話はあまりにも有名。同受賞者はほかでもない、クライフだった。なお、ネーションズカップ(現EUROの前身)決勝でPK戦の末にチェコスロバキア(当時)に敗れ、準優勝に終わった1976年に通算2度目のバロンドールを受賞している。20年後の1996年に同じドイツ人リベロのマティアス・ザマーがリストに名を連ねるまで、バックスでは唯一の受賞者だった。

同じ20世紀の巨星でもブラジルのペレやアルゼンチンのディエゴ・マラドーナといった南米勢とは異なり、指導者としても成功を収めた。1986年メキシコ・ワールドカップでは準優勝、4年後のイタリア・ワールドカップでは祖国に通算3度目のタイトルをもたらしている。クラブレベルでは古巣のバイエルンで短期の代理監督を務め、1993-94シーズンにブンデスリーガを制覇、1995-96シーズンにUEFAカップ優勝へ導いている。選手としても監督としても、勝利の女神に愛され続けた。指導の現場を離れて以降はバイエルンの会長やドイツ・サッカー連盟の副会長、2006年ワールドカップ・ドイツ大会組織委員会委員長など要職を歴任。世界に冠たるドイツのサッカー界とはいえ、これほどのカリスマはおいそれとは現れないだろう。サッカーの歴史が続く限り、従来の常識に少しも縛られず、未来を切り開いたイノベーターとしての功績は語り継がれていくはずだ。


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