上写真=後列左からパロップ、C・ロペス、ペジェグリーノ、ビヨルクルンド、アングロマ、カルボーニ。前列左からアルベルダ、キリ・ゴンサレス、ジェラール・ロペス、メンディエタ、フアン・サンチェス(写真◎Getty Images)
文◎北條 聡 写真◎Getty Images
二強に抗う第三極
いかにして二大勢力に対抗するか。第三極を狙う者たちはたいてい、同じ答えにたどり着く。
別の道に進めーーだ。
1990年代後半から2000年代にかけてのバレンシア(スペイン)がそうだった。選んだ道はレアル・マドリードとバルセロナの対極にあった。それが『クペラティバ』と呼ばれる堅守と電撃的な速攻だ。これで二強の牙城に迫り、ヨーロッパの舞台でも旋風を巻き起こす。
第三極の誕生だった。
クペラティバとは造語である。当時の監督名と協力的(コぺラティバ)という意味のスペイン語を掛け合わせたものだ。指揮官はエクトル・クーペル。バレンシアをスペイン随一の刺客に仕立て上げた張本人だ。
ただ、先代が基礎工事を終えていた。クラウディオ・ラニエリである。このイタリア人監督が混迷を極めていたクラブを立て直し、堅守速攻の土台を築いた。ラニエリの就任は1997年の秋。看板に掲げた攻撃サッカーが機能しないホルヘ・バルダーノの後釜だった。事態を重く見たフロントがカルチョの権謀術数に救いを求めた格好だ。
しかしラニエリ政権もすべり出しでつまずき、会長が失脚。後任のペドロ・コルテスが余剰人員の整理に乗り出し、新監督が仕事をしやすい環境を整えた。
結果的に9位でシーズンを終えると、翌シーズンは一気に4位へ飛躍。ラニエリはその手腕を買われ、アトレティコ(スペイン)に引き抜かれる。そこで次の指揮官にクーペルを抜擢したわけだ。
伏兵マジョルカをバレンシアの上を行く3位に押し上げ、脚光を浴びたばかり。しかも、総失点31はリーガ最少である。それこそ、ラニエリ路線の継承者にうってつけの人材だった。
だが、クーペルはスペイン人でもイタリア人でもない。先々代と同じアルゼンチン人だ。その手法は人海戦術(5-3-2)を基盤とするラニエリ風カテナチオとは違っていた。やや古臭い南米式の戦法に一大特徴があった。
南米風の4ー4ー2
クーペルはマジョルカで用いた独自の戦法をそっくりバレンシアに転用している。当時の戦術的トレンドがそこにもれなく詰め込まれていたわけではない。ベースになっていたのはいかにも南米風のそれだった。基本布陣は4ー4ー2。もっとも、中盤の並びはフラット型ではない。1980年代から南米勢が盛んに用いるようになったダイヤモンド型である。
アルゼンチンでは1990年代以降も中盤をひし形に組むチームが多かった。クラブ世界一を決めるインターコンチネンタルカップ(当時トヨタカップ)に出場した1996年のリーベルプレート、2000年のボカ・ジュニアーズもそうだった。
中盤のトップとボトムはエンガンチェ(釣り師)とヌメロ・シンコ(5番)だ。ブラジルにおける10番(ポンタ・ジ・ランサ=槍の先)とボランチに近い。言わば、頭脳と心臓である。
クーペルもラヌース(アルゼンチン)の監督時代にこのシステムを使って、大きな成功を収めた。マジョルカで釣り師の役割を託したアリエル・イバガサはラヌースで重用した秘蔵っ子だ。
だが、バレンシアにはエンガンチェの適材がいなかった。そこでクーペルはレンタル先のアラベス(スペイン)で得点力を開花させたピボーテのジェラール・ロペスを抜擢。2トップの背後から敵のゴールへ迫る襲撃者として貴重な働きを演じることになった。変わり種はエンガンチェだけではない。2人のインサイドハーフも個性的だった。右のガイスカ・メンディエタと左のキリ・ゴンサレスだ。彼らは攻めに転じると、外に開いて縦に仕掛けるウイングへ様変わりした。
とりわけ、主将のメンディエタは多芸多才。持ち前のキープ力で右サイドに基点を作りつつ、長短のパスで味方を動かす司令塔でもあった。おまけに得点力まで兼ね備え、守りの仕事も手を抜かない。まさに万能の人だ。
南米式の古いシステムを用いながら、攻撃面では南米色がきわめて薄かった。個々の独特のキャラが巧みに落とし込まれたクーペル流バレンシアは、そんな不思議な魅力に満ちていた。