サッカー世界遺産では語り継ぐべきクラブや代表チーム、選手を紹介する。第34回はのちにイタリアの代名詞となる戦術を確立したクラブを紹介する。圧巻の強さで、グランデ(偉大)の名を冠して対戦相手に恐れられた1960年代のインテルだ。

上写真=強固な守備と破格の攻撃力を併せ持ち、チャンピオンズカップ連覇を果たしたインテル(写真◎Getty Images)

文◎北條 聡 写真◎Getty Images

スイス発祥の輸入品

 不滅の書――と呼んでもいい。堅守速攻の虎の巻だ。

 いかに失点を避けながら、効率よく点を取るか。弱肉強食の世界で生き延びるノウハウは持たざる者たちを魅了してきた。現代の「パーク・ザ・バス」もその一つだろう。自陣ゴール前に大型バス(2本の守備ライン)を停めて、行く手を阻む。21世紀の人海戦術だ。

 20世紀のロングセラーは、バスではなくロック(錠)をかけた。発信地は1960年代のイタリアである。そこで対峙する敵を次々と仕留めた強豪インテルの虎の巻を、人々はこう呼んだ。

『カテナチオ』

 言わば、禁断の書だった。

 カテナッチョ――現地の発音はこちらに近い。すでに歴史的役割を終えた戦術に数えられるが、実に半世紀近くにわたってカルチョの代名詞となってきた。意外にもイタリア発の戦術ではない。発祥の地はスイス。創始者はオーストリア人だった。

 カール・ラッパンだ。

 スイス代表などを率いた経験を持つ指導者である。ワールドカップでも二度、采配をふるっており、1938年のフランス大会ではドイツを、1954年のスイス大会ではイタリアを破り、それぞれ8強へ導いた。

 秘策は「保険」にあった。相手のセンターフォワード(9番)をマークする選手の背後に、もう一人の守備者を据えて、破綻の危機に備えたわけだ。

 この手法をフランスのメディアが『ヴェルー』と名づけた。差し錠(かんぬき)の意味だ。最後尾で味方のカバーリングに奔走する選手の姿が、差し錠をかける動きに似ていたからである。
この新戦術はやがてアルプスを越えて、イタリア全土に広まっていく。ちなみに、カテナチオとはヴェルーの直訳だ。
カルチョ式へのアレンジが進んだのは1960年代。トレンドの発信地はミラノだった。

魔術師と自由人

 カテナチオも、差し錠をかける人(ポジション)が命綱となる。それを、イタリアでは『リベロ』(自由)と呼んだ。

 初登場は1947年。試みたのはサレルニターニャ(セリエB)の指揮官ジポ・ヴィアーニと言われる。もっとも、リベロ使いとして注目されたのは別の指導者だった。ネレオ・ロッコだ。1947-1948シーズンにプロビンチャ(地方クラブ)のトリエスティーナをセリエAの2位へ押し上げ、周囲を驚かせた。その10年後には、同じ地方クラブのパドバを3位へ導いている。

 1961年、このカテナチオの第一人者を引き抜いたのがミランだ。就任1年目にセリエAを制すると、2年目にはチャンピオンズカップの栄冠を手にした。こうして『カテナチオの時代』が幕を開ける。そこで急速に台頭したのが、ミランの仇敵インテルだった。魔術師(イル・マーゴ)がいたからだ。

 エレニオ・エレラである。

 アルゼンチン生まれのモロッコ育ち。選手時代を送ったフランスで指導者の道へ進み、両親の祖国スペインで名を上げた。1960年、バルセロナを率いた時代の実績を評価され、インテルの新監督に就任。スペイン流の攻撃的なスタイルで話題をさらったが、2年連続でタイトルを逃してしまう。これが思わぬ路線変更の引き金だった。

 カテナチオへの転換だ。

 アンジェロ・モラッティ会長の指示(厳命)だったと言われる。無冠の指揮官に選択の自由はなかった。だが幸い、成功へ導くための自由(リベロ)があった。

 アルマンド・ピッキオだ。

 攻撃側の企図を見破って現場に急行し、事態を速やかに収束させる。まさに危機対応(カバー)のスペシャリスト。エレラが全幅の信頼を寄せる理想の駒だった。

 リベロの手前に陣取るマンマーキングの刺客は4人。中央のストッパーと左右のフルバックの3人に右のハーフバック(4番)まで加わり、差し錠を外す「キー」を敵軍から取り上げた。

 さらに、エレラは攻撃陣に帰陣を促し、守備のタスクを求めている。まだ攻守の分業が常識だった時代に「全員守備」を実践させたわけだ。攻撃側が数的不利に陥り困惑したのも道理である。
ただ、魔術師の本領は守備以上に攻撃の革新にあった。インテルが演じたのは、ただのカテナチオではなかった。


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