サッカー世界遺産では語り継ぐべきクラブや代表チーム、選手を紹介する。第34回はのちにイタリアの代名詞となる戦術を確立したクラブを紹介する。圧巻の強さで、グランデ(偉大)の名を冠して対戦相手に恐れられた1960年代のインテルだ。

『エレラ・コード』の行方

画像: 1964年、南米王者と争うインターコンチネンタルカップを制してクラブ世界一に輝いたインテル。カップを掲げているのがファケッティ(写真◎Getty Images)

1964年、南米王者と争うインターコンチネンタルカップを制してクラブ世界一に輝いたインテル。カップを掲げているのがファケッティ(写真◎Getty Images)

「この先のフットボールは、より速く、より激しいものになる」

 未来を見通すエレラの知性は、当時の指導者のなかでも別格だった。攻撃戦術、スピード、活動量といった現代フットボールに必須の要件が『グランデ・インテル』に見て取れる。

 エレラは希代の戦術家であると同時に卓越した弁舌家でもあり、また有能なモチベーターでもあった。数々のスローガンを掲げることによって、選手たちを「洗脳」している。

 新たな常識を浸透させる作業がいかに困難か。何もサッカー界に限った話ではないが、エレラには人を説き伏せる才覚があった。しかし、エレラの築いた栄光はいまもってネガティブな意味合いで語られるケースが少なくない。後年、エレラはこう嘆いた。

「問題は誤った形でコピーする者が数多くいたことだ。彼らは私のカテナチオに攻撃の原理が含まれていることを忘れていた」

 1970年代に入り、イタリアではゾーナル・マーキングを組み込んだ『ゾナ・ミスタ』と呼ばれるシステムが、カテナチオの主流を成していく。各々の特殊な配置も役回りも、グランデ・インテルから着想を得ていた。

 ただし、中盤の深い位置で逆襲の基点となったレジスタ(8番)は、「襲撃者」を意味するインクルソーレに取って代わられる。そして、トップ下を担う「10番」が、司令塔の役割を兼ねることになった。

 1970年メキシコ・ワールドカップで準優勝に終わったアズーリ(イタリア代表)も、そうだ。天才ジャンニ・リベラ(ミランの10番)は資質的にレジスタの適性を備えていた。

 だが、実際にはマッツォーラの控えに回っている。バックラインの手前に据えるには守備力に不安があったからだろう。スアレスを含むタレント群に守備のタスクを課し、共存への道を開いたエレラのインテルとは違ったわけだ。

 いくつかの例外を除き、少人数のゲリラ的速攻がカルチョの基本路線となっていく。イタリア人たちは『エレラ・コード』を微妙に書き換え、より保守的なカテナチオを手にした。

 もっとも、エレラの理念は、いまも形を変えながら生きている。『グランデ・インテル』に込めた「エレラの暗号」は、現代フットボールの常識となったからだ。

 各々が守備のハードワークをこなす限り、攻撃のタレントは何人でも共存できる――。

 事実、インテルではスアレス、マッツォーラ、コルソという3人の創造者が共存し、ファケッティを含む6人がかりで逆襲へと転じた。守備は強力だったが、必ずしも守備的だったわけではない。
最強カテナチオのオリジナルとは、現代に一脈通じる「レトロな未来」だったかもしれない。

著者プロフィール◎ほうじょう・さとし/1968年生まれ。Jリーグが始まった93年にサッカーマガジン編集部入り。日韓W杯時の日本代表担当で、2004年にワールドサッカーマガジン編集長、08年から週刊サッカーマガジン編集長となる。13年にフリーとなり、以来、メディアを問わずサッカージャナリストとして活躍中。youtube『蹴球メガネーズ』


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