上写真=アルゼンチンに78年大会以来となる2度目のワールドカップ優勝をもたらしたマラドーナ(写真◎Getty Images)
文◎佐藤 景 写真◎Getty Images
60歳になったばかりだった
横浜F・マリノスの劇的な勝利を見届け(ACL・上海上港戦)、気持ちよく眠りにつこうと思っていた日本時間26日未明、あまりにも悲しいニュースが飛び込んできた。
マラドーナ、死去。
ウソであってほしかった。ただ、ネット上で現地の報道に触れるたびに、ニュースの輪郭がはっきりとしていく。朝になっても、やはり訃報はフェイクニュースではなかった。世界中のファンがネット上で、SNS上で哀しみに暮れていた。
ペレもメッシもネイマールら多くの選手たちが、そしてバルセロナやボカなど彼が所属したクラブに加えて、世界中のサッカークラブが偉大なるフットボーラーに対する追悼の意を表していた。
現役時代はもちろん、引退後もこれほど注目を浴び、話題を提供し続けたフットボーラーはいないだろう。
1960年10月30日生まれ。つい先日、還暦を迎えたばかりだった。印象的だったのは、ボカ・ジュニアーズがtwitterに掲載した映像だ。そこには躍動するマラドーナの姿とともに「1960-∞」の文字がある。
マラドーナは永遠ーー。そんな思いが見て取れる。
現役時代の中でも、伝説的な活躍を披露した1986年ワールドカップのマラドーナとアルゼンチン代表について綴った文章をここに再掲載したい。なぜ、神と崇められるようになったのか。その理由を記したものだ。
あの大会の数々のプレーは、いまなお多くの人々の中で輝き続けている。決して色あせることなくーー。
14点中13点に関与した圧巻のプレー
チーム内における影響力を比べれば、ペレも、ヨハン・クライフも、遠く及ばない。86年大会のディエゴ・マラドーナは、まさに一人で勝負の行方を決定付けてしまう、そんな存在だった。
初戦から決勝までの7試合でこの天才プレーヤーは5得点5アシストの離れ業を成し遂げている。これはチームが挙げた14得点のうち、半数以上に関与した計算だ。
スコアシートには載らないものの、ウルグアイ戦の1点目と西ドイツとの決勝における2点目も、攻撃の起点になった。決勝の1点目(ブルチャガ→ブラウン)を生んだFKにしても、そのパスが相手の反則を誘ったからこそ生まれたもの。結局、無関係に生まれたゴールは、ブルガリア戦の1点だけだった。
指揮官カルロス・ビラルドによる「優勝を実現するための最善策」は、一人のフットボーラーの能力を最大限に生かすことにあった。その結果として、86年大会は「マラドーナの、マラドーナによる、マラドーナのための大会」になったのである。
10人のしもべを集めたスターシステム
83年秋の監督就任以来、ビラルドのチームは34試合を戦い、13勝しか挙げていなかった。そのために大会前は厳しい批判に晒され、マラドーナが後に当時の状況を「周りがすべて敵だらけに見えた」と振り返るほど、風当たりは強かった。
指揮官の指導力と采配に関して国内では懐疑的な意見が大勢を占め、82年大会の惨敗を経てもなお、78年大会で初優勝を成し遂げたセサル・メノッティの再登場を願う声が根強かった。
しかし、そんな中でもビラルドによる、マラドーナ中心のチームづくりは着々と押し進められる。攻めは自由を与えてマラドーナにすべてを託し、守りは実直かつ従順な「しもべ」をそろえる。指揮官の、ある種の割りきりが、メキシコで栄誉に浴すことになったアルゼンチンの大きなポイントだった。
大会期間中、守備は、ほぼすべての試合で、オスカル・ルジェリとルイス・クシューフォの両ストッパーの背後に、ルイス・ブラウンを置き、確実に相手のアタッカーを捕まえる策が基本となった。その前ではマラドーナのお気に入りのひとり、セルヒオ・バチスタがにらみをきかす。3人のセンターバックのサイドのスペースをケアするウイングバックも、ハーフウェーラインから後ろを主戦場とし、敵陣深く攻め込むことは稀だった。
マラドーナがいなければ、ずいぶんと味気ないチームだったとする向きが多いのは、守備重視の印象が強かったからに他ならない。攻撃の全権を一人に託し、ほかの選手たちには守備に気を配らせる。当然、攻守一体ではなく、攻撃と守備の分業制を敷いているように映った。ただし、固い守りでピンチを回避し、いったんボールをマラドーナに預ければ、たちまち鮮やかな攻撃が展開された。
結局マラドーナがいたから、現実にアルゼンチンが凡庸なチームに成り下がることはなかったのである。
チームプレーを貫いて生まれた絶妙なバランス
無闇に突っかけては相手のファウルに苛立ち、ついに退場を宣告された4年前とは打って変わって、この大会のマラドーナは、チームプレーを心がけ、自分を失うことがなかった。大会前に指揮官とかわした「サッカーに集中すること」「相手のファウルに熱くならないこと」という約束を守り、状況に合わせておとりになり、組み立て役になり、シューターになった。そうして生み出したのが、前述の13ゴールだった。
イングランド戦の5人抜きゴールやベルギー戦の2ゴール、それにもちろん『神の手ゴール』など派手なプレーもあるにはあったが、すべてはチームにとってベストな選択をした結果だ。象徴的なのは、韓国戦のホルヘ・バルダーノへのアシストと決勝の西ドイツ戦のホルヘ・ブルチャガへのお膳立てだろう。相手の守備が堅いと見るや、マークをひきつけ、アシスト役を買って出て、チームを勝利に導いた。
「彼がいなくなったら、どうなるのか」
親友であり、盟友であるバルダーノが大会前に抱いていた心配も杞憂に終わる。一見、いびつなスターシステムはしかし、その要たるスターがチームに忠実であり続けたことで、絶妙なバランスを保った。指揮官がマラドーナを特別扱いし、このエースがやり易いようにチームを構成することで、逆にマラドーナをチームにうまく組み込んだのだ。
78年大会で母国に初めてカップをもたらした男、33歳のダニエル・パサレラではなく、25歳のマラドーナをキャプテンに指名したのも、本大会で期待されていた新星クラウディオ・ボルキやペドロ・パスクリを限定的に起用したのも、年下の選手が幅を利かす状況に不満を抱いていたリカルド・ボチーニの出場をわずか1試合に留めたのも、すべては一人の天才のモチベーションを維持するため。犬猿の仲と言われるパサレラが、体調面を理由に最後まで出場しなかったのも、マラドーナと無関係ではない。
大会期間中の記者会見でマラドーナが冗談めかして発した「パサレラがメノッティのお気に入りだったように、僕はビラルドのお気に入りだ」というコメントが、当時の特殊なチーム事情を表している。
「彼に、特別な管理方法が必要だということは、(監督に就任した)最初の段階から分かっていた。私は自分に言い聞かせたのです。『マラドーナはこっち、そして他の選手はあっちだ』と」
それがビラルドの基本的な考え方であり、メキシコの地でマラドーナを、マラドーナたらしめた理由だった。後に神とまで崇められる本物の天才を、指揮官がその気にさせた時点で、勝負はついていたのかもしれない。
86年大会のアルゼンチンは、ワンマンではない、マラドーナのチームだった。ワールドカップの長い歴史の中でも、これほどまでに一人の選手がチームに影響力を持ち、優勝に至る過程で「機能した」例はない。おそらく今後も、こんな優勝チームにはお目にかかれないだろう。
※2018年6月に掲載した文章を再構成したものです。