上写真=世界を驚かせたオーストリア代表チーム(写真◎Getty Images)
文◎北條 聡 写真◎Getty Images
驚異の父
あれは1999年だから、もう20年以上前のことになる。
FIFA(国際サッカー連盟)がオランダ人のリヌス・ミケルスを20世紀最優秀監督に選んだ。誰よりも多くの栄冠を手にしたからではない。最大のイノベーター(革新者)だったからだろう。
1970年代に全世界を驚かせた『トータルフットボール』である。その生みの親がミケルスだった。しかし、本人は「私の発明ではない」と話している。
プロトタイプがあったからだ。1つは1950年代のハンガリー代表だが、ミケルスによれば、これに先立つチームがもう1つあったという。それが『ヴンダーチーム』の異名を取った1930年代のオーストリア代表だった。
ヴンダーとはドイツ語である。英語にすればワンダー。つまり、驚異(奇跡)という意味だ。
なぜ、オーストリアに『驚異のチーム』が生まれたのか。現代人の感覚ではピンと来ない。1930年代と言えばワールドカップが始まったばかりの頃である。ヨーロッパの勢力図は現在とは大きく違っていた。
当時の超大国はスペインでも、ドイツでもない。母国イングランド以外の列強は、中央ヨーロッパにあった。オーストリア、ハンガリー、チェコスロバキア、そしてイタリアである。このうち、最も先進的だったのがオーストリアだ。イングランドに続き、ヨーロッパ大陸で初めてプロ化を試みている。1924年だから、第1次世界大戦が終結して6年後のことになる。
仕掛人がいた。
フーゴ・マイスルだ。いまでは「オーストリア・サッカーの父」として知られるが、ヨーロッパのサッカー界で多大な功績を残した大立者でもあった。
裕福な家庭に育ったユダヤ人。ボヘミア生まれだが、少年時代に一家でウィーンに移り住んでからサッカーの虜になったという。
成人して銀行員となるが、すぐに地元クラブへ入団。ウイングとしてプレーしている。だが、選手として大成せず、24歳という若さで短いキャリアを終えた。
その後、審判として国を代表する存在となったあたりが面白い。事実、20代後半で国際試合をさばき、1912年のストックホルム五輪でも笛を吹いている。
ちょうど30代になったばかり。サッカー協会へ身を投じたのもこの頃だった。そこからプロリーグ創設などの数々の改革を手掛け、やがて伝説の『ヴンダーチーム』を産み落とすことになった。
『紙の男』シンデラー
オーストリアが誇る『ヴンダーチーム』の誕生は、1931年のことである。
4月のチェコスロバキア戦から14戦無敗(11勝3分け)。いや、最大の驚きはそこではない。相手を木っ端みじんに打ち砕くド派手なゴールラッシュにあった。
一度や二度ではない。スコットランドに5-0、ドイツに6-0と5-0、スイスに8-1、そしてハンガリーに8-2だ。
もう、圧巻の一語である。これらの国々は決して弱小だったわけではない。その相手にこれだけの大差をつけて勝つのだから、人々が驚がくするのも当然だった。
例の『ヴンダーチーム』と呼ばれるようになったのは、ベルリンでドイツに6-0と圧勝した一戦のあとだ。この試合を取材したベテラン記者がこの表現を初めて使ったと言われている。
当時のドイツはケルンでイングランドと3-3のドローを演じたばかり。相応の実力を評価されていただけに、大敗の衝撃は大きかったという。
また、偶然にも多くのサッカー関係者がこの試合を観戦していたことも、その名が広く知れわたった要因の一つだ。FIFA(国際サッカー連盟)の総会に出席するため、ベルリンに滞在していたからである。
飛ぶ鳥を落とす勢いの『ヴンダーチーム』には、ひとりの天才がいた。それが伝説のマティアス・シンデラーである。人々から『デル・パピアン』と呼ばれた。ドイツ語で『紙の男』という意味だ。
身長179センチ。当時としては大柄だが、体重は63キロだったから、いかにも細身である。ただし、見た目だけが奇妙なあだ名の由来ではない。
敵が密集したゴール前をいとも簡単にすり抜けていく。その隙間を縫うようなプレーぶりが、神ならぬ「紙」を連想させたか。
古傷があった。若い頃に痛めた右ひざで、常に包帯が巻かれていたという。巧みな「すり抜け」は激しい(肉体)接触を避ける知恵でもあった。
優男の「三種の神器」は技術、戦術、創造力。当時のポジションはセンターフォワードだったが、ただの点取り屋ではない。
フォルス・ナイン(偽9番)の先駆的存在だったという。つまり周囲に点を取らせるデコイ(おとり)でもあった。攻撃陣の華麗なコンビネーションが、このチームの最大の強みだったからだ。
教えた人が、いる。
協会事務局長と代表監督を兼任していたマイスルの傍らで、じっと戦況を見守る人物こそ、プレーモデルの革新者だった。