連載『サッカー世界遺産』では後世に残すべきチームや人を取り上げる。今回はのちのサッカー界に大きな影響を及ぼしたチームを取り上げる。中央ヨーロッパの「驚異の」チーム、1930年代のオーストリア代表だ。

革新の『ウィーン派』

画像: 「オーストリア・サッカーの父」として多くの施策を手がけ、ヴンダーチームの監督も務めていたマイスル(写真◎Getty Images)

「オーストリア・サッカーの父」として多くの施策を手がけ、ヴンダーチームの監督も務めていたマイスル(写真◎Getty Images)

 偉大なるマイスルは、あくまで「ピッチ外の革新者」だった。1919年に代表監督に就任したが、その実はチームを管理するマネジャーである。選手選考以外に代表を強化する手立てを持っていたわけではなかった。

 彼の代わりに、盟友が魔法の杖をふるっている。

 ジミー・ホーガンだ。ランカシャー生まれのイングランド人ながら、ヨーロッパ大陸で名を挙げた指導者である。単身ヨーロッパ大陸へ渡ったのが1910年。オランダのドルドレヒトがコーチ業の出発点だった。その2年後、知人を介して初めてマイスルと出会う。

 2人はすぐ意気投合。ホーガンはコーチとして協会に招かれる。ここからサッカー史を書き換える二人三脚が始まった。最大のヒットと言えば、フットボールを専門とする『ウィーン・スクール』の設立だろう。そこで教えたホーガンの理論が、この国のプレーモデルを基礎づけることになったからだ。

 ホーガンの理論はイングランド流ではない。速く、巧みにボールを回すスコットランド流のパス・アンド・ムーブだった。

 ロングボールを多用するイングランド式とは真逆のショートパス戦法である。現役時代にフルハム(イングランド)でスコットランド人監督のジョク・ハミルトンの薫陶を受けていた。ミスなく細かいパスを連続させるには確かな技術が必要だ。止めて蹴る、止めずに蹴る。ホーガンは思いどおりにボールを扱うことの重要性を説き続けた。

 もう1つが、動き方(ムーブ)だ。こちらは技術ではなく、戦術である。どうスペースを作って、それを生かすか。ホーガンの教えは中央突破のコンビネーションにあったという。

 スクールを創設してから2年後の1914年に第1次世界大戦が勃発。オーストリアとイギリスは敵対関係にあったため、ホーガンはハンガリーのブダペストに逃れてMTKのコーチとなる。

 その後、各国を転々とし、再びウィーンへ戻ったのが1931年のことだ。実に17年ぶりの帰還である。その空白期間にもホーガンの教えは数多くの選手や指導者に脈々と受け継がれていた。

 そして『ウィーン派』と呼ばれる独自のプレーモデルが確立されたわけだ。スクールが設立された当時、11歳の少年だったシンデラーも「ウィーン派の巨匠」へ大きく育っている。
革新の種は蒔かれていた。

一大派閥の天敵

 実のところ、ヨーロッパ最強軍の『ヴンダーチーム』には、同じ遺伝子を持つ「兄弟」がいた。

 ハンガリーとチェコスロバキアだ。前者はあのホーガンが第1次世界大戦勃発後に深く根を下ろした国である。後者はどうか。
彼らもまた、スコットランド流のショートパス戦法を看板にしていた。伝道師がいたからだ。
ジョン・ディックである。遠くプラハへやって来たスコットランド人の指導者だった。

 チェコスロバキアのスタイルは『ドナウ派』と呼ばれた。ドナウはドイツ語で、英語ならダニューブとなる。ヨーロッパ大陸を東西に横切る大河のことだ。

 上流地域の中心にはウィーンがあり、中流地域の大都市には「ドナウの真珠」ブダペストがある。つまり、3カ国に共通するプレーモデルの総称として『ドナウ派』と呼ぶわけだ。

 1914年まで1つ(オーストリア=ハンガリー帝国)にくくられていた3つの国が、1930年代のサッカー界で「一大派閥」を形成していた。1934年のワールドカップではチェコスロバキアが、1938年のワールドカップではハンガリーが、それぞれ決勝に駒を進めている。

 ただ、どちらも同じ相手に敗れた。名将ビットリオ・ポッツォの率いるイタリアだ。そして『ヴンダーチーム』に引導を渡したのもまた、彼らだった。

 1934年に開催されたワールドカップ準決勝。そこで黄金時代の幕が下りる。0-1。完封負けだった。決勝点は19分だ。オーストリアのGKがボールを捕球した直後に体当たりを食らい、こぼれ球を押し込まれている。

 体当たりが当時の基準で明確なファウルだったかどうかは分からない。主審が買収されていた、という噂もある。イタリアは開催国であり、ムッソリーニの独裁政権の時代だ。何が起きても不思議ではなかった。
しかも、雨の影響でピッチ上には大きな水たまりが残っていた。『ウィーン派』のパス・アンド・ムーブは空転し、エースのシンデラーも岩のようなモンティの激しいマークに遭い、最後まで沈黙したままだった。

 仕組まれた敗戦-との見方もある。不運もあった。しかし、あれだけの攻撃力を誇ったチームが1点も取れずに敗れた事実は動かしようがない。

 これを機にイタリアは『ドナウ派』の天敵となり、伝説のチームは歴史の表舞台から消えていく。まさに終焉の日だった。


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