上写真=バイエルンを下し、マンチェスター・ユナイテッドは98-99シーズンのチャンピオンズリーグに優勝した(写真◎Getty Images)
文◎北條 聡 写真◎Getty Images
ネバーサレンダー
我々は絶対に屈服しない。絶対に、絶対に、絶対にーー。第二次世界大戦でヒトラーから世界を救ったイギリスの英雄チャーチルの言葉だ。
倒れても、倒れても、必ず立ち上がる。不撓不屈。その誇り高き精神は彼らにも脈打ち、輝かしい栄光を形づくってきた。イギリス随一の名門マンチェスター・ユナイテッドのことだ。
彼らもまた、転んでも立ち上がる。ただでは起きない。全部もっていく。それも劇的なまでに。いや、奇跡的に―と言うべきか。道理などない。力ずくで無理を通してしまう。そのすさまじい迫力、鋼のようなたくましさが、眠れる『悪魔』を復活へと導いた。
ユナイテッドの伝説は、あの日から始まったと言ってもいい。1958年2月6日、チームを乗せたチャーター機が西ドイツ・ミュンヘンの空港で事故に遭い、主力8人が亡くなった。いわゆる『ミュンヘンの悲劇』である。
再建は簡単なことではない。だが、かろうじて一命をとりとめた指揮官バスビーの下、再び顔を上げ、力強く前を向き、わずか10年で、ヨーロッパ最強クラブの座へ上り詰める。
奇跡の復活だった。
逆境からはい上がる不屈のドラマは、クラブの誇るべき伝説だ。しかし、伝統にはなっていない。偉大な名将が退任したあと、暗い迷路にはまり込んだからだ。
1970年代から1980年代にかけて、ライバルたちの後塵を拝することになる。当時のイングランド最強クラブと言えば、それはリバプールのことだった。
一説によると、冬の時代の元凶は「院政」にあった―とも言われる。バスビーが退任後もクラブに残り、ラスボスとして君臨していたからだ。
ボスが2人では、さすがにうまくは回らない。そもそもバスビー自身も監督時代に、練習の指揮、選手の選考、移籍決定への関与という3つの権限をクラブ側に認めさせることで、辣腕をふるうことができたのである。
クラブにはその手に全権を握る「新たな父」が必要だった。そして、ようやく彼が現れた。
厳格な父がやって来た
バスビーがクラブと距離を置くようになって、数年が経った頃。1986年の夏、ユナイテッドは新たな監督を迎え入れる。
アレックス・ファーガソンだ。当時44歳。就任直前のメキシコ・ワールドカップで、祖国スコットランドを率いていた。エリートではない。弱小クラブから指導者のキャリアを築いてきた叩き上げ。名声を手にしたのはアバディーン(スコットランド)の監督時代だった。
セルティックとレンジャーズの2強を向こうに回し、タイトルを総なめ。その実績を買われて代表コーチに就任、代表監督のポストに駆け上がっている。
だが、人々は彼の手腕に懐疑的だった。1年目は11位、2年目に2位へ躍進したが、3年目は再び11位に沈んでいる。そして4年目には、スタンドに辛らつな横断幕が掲げられた。
「3年間の数々の言い訳ーーさよなら、ファギー」
しかしこのシーズンにFAカップを制し、無冠を返上。翌シーズンには、当時ヨーロッパ3大カップの1つだった、カップウィナーズカップの優勝へ導くことになる。
転んでも、ただでは起きない。彼もまた、不屈の人だった。彼の首に鈴をつけずに耐えたクラブの英断と言ってもいい。
人気にあぐらをかいて、一部のタレントを甘やかす。ファーガソンはクラブに巣くう悪しき慣習を壊しにかかった。規律重視。練習態度から節制に至るまで、プロとしてのあるべき姿を求めた。相手が誰だろうが、容赦はしない。アンタッチャブルな存在を決して認めなかった。
中盤の名手にして不動のスターでもあったロブソンも、ばっさり切り捨てている。飲酒癖をよしとしなかったからだ。
もう頑固一徹。いっさいの妥協を許さぬ厳格な「父」だった。そこでふるいにかけられ、生き残った選手たちが、どういう人間か。想像に難くない。
そして就任から7年目、ついに悲願のリーグタイトルをつかみ取る。プレミアリーグの初代王者として名を刻む1992-1993シーズンのことだった。
クラブにとって実に26年ぶり。あのバスビー政権以来の栄冠である。その裏には、暗黒史を一変させる重要な出来事があった。やがて『キング』と崇められる特別な男。エリック・カントナがはるばるマンチェスターにやって来たことだった。