上写真=ブラジルでプロとして活躍したセルジオ越後(写真左)のテクニックは、当時の日本ではケタ違いのレベルだった(写真◎サッカーマガジン)
文◎国吉好弘 写真◎サッカーマガジン
デビュー戦で異次元の世界を見せた
現在のJリーグでも、最も多い外国籍選手は、統計を取るまでもなくブラジル人選手だ。J1だけでも50人を超える地球の反対側からの「助っ人」がプレーしており、その数は他を圧倒している。
世界的に見てもブラジルが最大の選手輸出国であることも大きいが、さかのぼって、昭和の日本リーグ(JSL)時代も同様だ。第1号は1968年に来日したネルソン吉村(当時、のちに日本に帰化して吉村大志郎)だった。
JSLはアマチュアリーグだったので、ヤンマーのブラジル工場へ入社し、社員として来日。日本でも社業をこなしながらサッカーに打ち込んだ。その後もカルロス・エステベス、ジョージ小林がブラジルから加わったヤンマーは、釜本邦茂という稀代のストライカーを軸に、JSLで優勝争いをするチームになる。
そして1972年、この年にJSL昇格を果たしていた藤和不動産(のちにフジタ工業→現湘南ベルマーレ)が、前期を未勝利で折り返したシーズンの後期に迎えたのが、セルジオ越後だった。
それまでのヤンマーのブラジル出身選手が全員、母国ではアマチュアの選手だったのに対し、越後はその名前が示すように日系ではあったものの、元プロ選手、それもサンパウロの名門クラブ、コリンチャンスでプレーした一流選手だった。
もちろんプロとしてJSLでプレーできるわけではなく、すでにブラジルでプロ選手を引退して数年が経っていたため、日本でアマチュア選手としての活動が認められたのだった。ヤンマーの吉村や小林も、当時の日本人選手に比べて格段に優れたボールテクニックを見せていたのだが、「元プロ」の技はケタ違いだった。
1972年10月14日、東京・国立競技場で行なわれたJSL第8節、三菱重工─藤和不動産戦で越後は日本サッカー界にデビューした。当時高校生だった筆者も現地で観戦したが、越後のプレーは正直、わけが分からなかった。
ボールを持って体は右を向き、そちらへボールを動かしたと思えば、逆の方向へ移動しており、反対方向へ体重を傾けた相手を悠々と置き去りにしていく。余裕を持ってフリーの味方へパスして、チャンスにつなげる。そういったプレーを繰り返し、越後がボールに触ると、そこには異次元の世界が広がっていた。