1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第13回は、日本サッカー史上でも指折りの技巧派、宮本輝紀について綴る。

上写真=八幡製鉄と日本代表で活躍し、メキシコ五輪の銅メダリストでもある宮本(左)。当時としては異質のテクニシャンだった(写真◎サッカーマガジン)

文◎国吉好弘 写真◎サッカーマガジン

輝さんの技術はズバ抜けていた(杉山隆一)

 1964年に東京オリンピックが開催され、65年に日本リーグ(JSL)が創設。66年には明治大から杉山隆一が三菱重工へ、67年には釜本邦茂が早稲田大からヤンマーへ加入し、JSLは盛り上がりを見せた。

そして、68年メキシコ五輪での日本の銅メダル獲得へとつながっていく。杉山はスピードに乗ったドリブル、釜本は豪快なシュートで観客を沸かせ、当時の2大スターだったが、彼らに次ぐ存在が、テクニックとパスワークで魅了する八幡製鉄の技巧派・宮本輝紀だった。

 宮本はメキシコの前年に運動記者会が選ぶ年間最優秀選手に選ばれている。これはJSLより、メキシコへの予選を勝ち抜いた日本代表での活躍が評価されたものだった。JSLでは66年に存在感を発揮し、チームは前年に続いて2位に終わったものの、個人ではリーグ3位の11得点、同2位の6アシストを記録した。

 特に得点は1位の小城得達(東洋)が14得点、2位の杉山(三菱)が12得点を挙げたが、小城はうち10得点、杉山も8得点がPKによるもので、『得点王を表彰するならPKは0・5点として計算してはどうか』という議論もあった。仮に採用されていれば、PKでの得点が1得点の宮本が得点王だった。

 記録はともかく、ボールコントロールが巧みで、正確かつアイディア豊富なパスを駆使し、得点力も高いという、とにかく見ていて楽しい選手だった。昨年、メキシコ五輪50周年記念パーティーで杉山、釜本両氏に、松本育夫氏を加えて行なった鼎談(サッカーマガジン2019年1月号掲載)でも、「今は、うまい選手もたくさんいるけど、あの時代の輝さんのテクニックはズバ抜けていた」(杉山)、「すごかった。たぶん今なら数億円の選手だね。日本で最高給取りの選手になっていましたよ。ちょっと(時代が)早過ぎたね」(松本)と、当時を知る盟友もあらためて称賛していた。


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