3シーズン連続の2位
翌2006年、ローマは苦肉の策だったゼロトップを継続。システムの完成度を高める方向へ動き出す。
同年夏、インテルでくすぶっていた奇才ダビド・ピサロが加入。レジスタ(司令塔)としてセリエA随一の才覚を誇るチリ人の多彩なパスが、攻めのバリエーションを大きく発展させた。
さらに、余人をもって代え難いトッティ不在の緊急事態に備え、俊英ミルコ・ブチニッチを獲得。こちらはFWを本業とする本格派のターゲットマンだから、オプションの域を出なかった。
もっとも、要のトッティは健在で、出し手と受け手の両面でフル稼働。26ゴールを量産し、得点王を手にすることになった。
2006年夏、世界制覇を成し遂げたドイツ・ワールドカップを最後に、イタリア代表から引退。不動のエースがクラブでの活動に専念することになったのもローマにとっては追い風だった。
トッティにとっても、キャリアの円熟期にゼロトップの当たり役を得たのは、幸運と言っていい。ただ、スパレッティの下で迎えた黄金期に大きなタイトルを手にすることだけは叶わなかった。
2シーズン続けてスクデットを争ったが、いずれも2位に終わっている。痛恨だったのはスパレッティ体制3年目。タイトルをさらったインテルとの勝ち点差は、わずか3ポイントだった。
翌シーズンも2位につけたが、開幕から2試合を消化したところでスパレッティが辞任。跡目を継いだクラウディオ・ラニエリの下でもゼロトップが継続され、一時は首位に立つ快進撃を演じたが、大詰めの35節で、サンプドリアに不覚を取り、スクデットを逃すことになった。
スパレッティの就任で始まったローマの黄金期は、このシーズンが最後だった。コッパ・イタリアでの優勝以外、ゼロトップの衝撃と密接にリンクする記録は残っていない。
反面、尖った仕組みが放つインパクトと、イタリアのクラブにはめずらしい娯楽性に富んだ戦いぶりは、長く語り継がれていいシロモノか。トッティという千両役者の雄姿とともに、カルチョ信者の記憶に深く刻まれたはずだ。
そして何より、ピンチをチャンスに変えた戦術家の逆転の発想はジャンルを超えた、生きる知恵。この先、苦境にあえぐ集団の中から「第2のローマ」が現れるのかもしれない。
著者プロフィール◎ほうじょう・さとし/1968年生まれ。Jリーグが始まった93年にサッカーマガジン編集部入り。日韓W杯時の日本代表担当で、2004年にワールドサッカーマガジン編集長、08年から週刊サッカーマガジン編集長となる。13年にフリーとなり、以来、メディアを問わずサッカージャナリストとして活躍中。