上写真=1986年1月にヤマハ東山総合グラウンドで行なわれた天竜川決戦。アマ時代の日本サッカー界で数少ない、多くの観客が集まる人気カードだった(写真◎BBM)
文◎国吉好弘
ヤマハ発動機vs本田技研
ダービーマッチとは、同じ街、地域にある2つのチームの対戦のことで、近隣するチーム同士が強烈な対抗意識で臨む。現在のJクラブで言うなら、ガンバ大阪とセレッソ大阪の対戦が「大阪ダービー」と呼ばれ、ジュビロ磐田対清水エスパルスが「静岡ダービー」として有名だ。
この「静岡ダービー」は、アマチュアの日本リーグ(JSL)時代にも存在した。磐田市をホームとするジュビロの前身であるヤマハ発動機と、浜松市を本拠地とし、現在でもHonda FCとしてアマチュアのトップに君臨する本田技研の対戦だ。
まだダービーマッチという言葉は一般的ではない時代で使われていなかったが、両市の間を流れる川にちなんで「天竜川決戦」と呼ばれ、両チームをサポートする人たちを熱狂させた。
サッカー部創立はヤマハが1972年、本田が71年だが、ヤマハも71年に同好会として発足しており、ほぼ同時期にスタートした。本田は75年にJSL2部に昇格。ヤマハも、68年メキシコ五輪銅メダリストで、「黄金の足」と呼ばれた杉山隆一を三菱退社後に監督兼選手として迎え入れ、急速にチーム力をつけて79年にJSL2部入りを果たした。
この年の前期最終戦で、両チームは初めてJSL公式戦で対戦。当時の専門誌によれば、浜松市の本田技研グラウンドには、「アウェー」のヤマハを応援する人がバスなど13台ほどで乗りつけ、およそ1500人が駆け付けた。一方の本田サイドも約2500人で迎え撃った。
当時JSL1部でも1試合平均の観客数が2220人という時代に、2部ながらも4000人を集めたのは異例だったと言える。しかも地元では静岡放送が実況中継するという盛り上がりをみせた。
試合も一進一退で両者譲らず、ヤマハが先制すると本田が追い付き、さらに本田が逆転すればヤマハが追い付いて、90分間を終えて3-3。当時の規定ではPK戦で決着をつけたため、ヤマハが4-3で勝った。日本最初のダービーマッチにふさわしい熱戦だった。
互角だった静岡対決
1965年にスタートしたJSLでは、初年度から古河電工、日立本社、三菱重工の3チームが東京に本拠地を置いていた。だがこれは、大企業の本社が丸の内に集結していたためで、地域的なライバル意識はあまりなかった。
愛知県からは名古屋相互銀行と豊田織機が参加しており、隣接する市同士のライバル意識はあったはずだ。しかし、ともに下位をさまようレベルの実力で、名相銀が在籍2年でリーグから降格し、豊田も3年で降格してしまう。名相銀は復帰したものの、71年を最後にチームが解散し、サッカーを通じたライバル関係が語られることもなかった。
そういう意味でも、日本のトップレベルのダービーの草分けは「天竜川決戦」と言っていい。両チームにはバイクの製造会社としてのライバル関係もあり、企業スポーツに支えられていたJSLでは、競争意識がより高まった。自他ともに認める「サッカーどころ」静岡で、周囲のサッカーへの関心が高いことも、この試合の存在を際立たせた。
両チームは81年にJSL1部で初対戦。翌年ヤマハが2部に降格したが、83年に復帰し、その後91-92シーズンでJSLが終了するまでしのぎを削り合った。通算では1部だけで20試合を戦い、本田の7勝7分け6敗。2部での対戦も含めれば、ヤマハの7勝7分け7敗・1PK戦勝ちと、全くの互角と言ってよかった。
現在は磐田がプロ、Hondaがアマチュアで、それぞれの頂点を目指している。2017年の天皇杯2回戦で25年ぶりの対戦が実現し、話題となった。