上写真=高々と優勝トロフィーを掲げるジダン(写真◎Getty Images)
文◎北條 聡 写真◎Getty Images
悩めるホスト
コピーよりオリジナルを――。
それが王者の条件と信じられていた時代に「彼ら」は現れた。
頂点を極めたいなら、世界標準をハックせよ――。
ガラパゴスという名のゴミ箱へ伝統を放り込み、時代の最先端を追いかける。もはやトリコロールのイレブンから「シャンパン」の香りは消えていた。
脱フランス――。その長いトンネルを抜けた一団の先に、待望の栄冠が待っていた。世紀末が近づいた1998年の夏、20世紀最後のワールドカップが開催された。
舞台はフランス。大会の創設者ジュール・リメの祖国だ。さらにホスト国を担うのは、1938年に続いて二度目のことだった。参加するのは、32カ国。従来の24から出場枠が拡大された。初めて本選に駒を進めた日本も、その恩恵に預かった国の一つだ。
本命は、連覇を狙うブラジル。怪物ロナウドを擁し、主将のドゥンガ、司令塔リバウド、FKの鬼ロベルト・カルロスなど、役者がそろっていた。
しかし、肝心の『レ・ブルー』(フランス代表の愛称)は、深い悩みの中にいた。予選免除の特権を生かして、入念に準備を重ねてきたが、課題が山積みだった。
「もちろん、優勝する可能性はあるが、優勝候補ではない」
かつての英雄にして大会の組織委員長を務めるミシェル・プラティニは、こう言い放った。事実、チームは深刻な得点力不足に悩まされていた。
多民族の統合
フランス国民も、大会が始まるまでは自国の代表にさほど関心を示さなかった。代表の事情をよく分かっていたとも言えるが、そもそもサッカーにのめり込むほどのお国柄でもない。
極右政党(フランス国民戦線)の党首ルペンに至っては「国歌すら、まともに歌えないヤツがいる」と毒づいた。移民だらけ――そう言いたかったわけだ。
ヨーロッパ随一の多民族国家。実際、歴代の代表も二世を含む、多くの移民に支えられていた。
もっとも、今大会のフランスは従来とはスケールが違った。多様なルーツを持つ選手の集まりだったからだ。
かねてからいるバスク人(デシャン、リザラズ)や海外県・海外領土(グアドループ=チュラン、ニューカレドニア=カランブー)の出身者に加え、ガーナ系(デサイー)やアルメニア系(ジョルカエフ)の選手までが、先発に名を連ねている。そして、何より代表の金看板(ジダン)が、アルジェリア移民の子だった。
バスク人の闘争心、アフリカ系と海外県(領土)出身者のフィジカル、そして、アラブ系の足技と創造力。各々の異なる個性が絡み合ったグループは、歴代の代表チームにはない「幅と深み」を持つことになった。
人種のサラダボウル――。それが「脱フランス」へのドアを開く1つ目のカギだった。
「世界標準」の傑作
初陣の舞台は南仏マルセイユ。そこで、南アフリカを迎え撃つ。6月12日のことだった。
スコアは3-0。デュガリーの先制点は、マルセイユ育ちであるジダンのCKから生まれた。
2戦目はサウジアラビアに4-0、3戦目はデンマークに2-1と快勝。あっさり3連勝を飾り、ベスト16へ勝ち上がる。
際立ったのは強固なディフェンスだ。3戦目の失点はPKによるもの。オープンプレーでは、一度もゴールを割らせていない。
フランスと言えば、華麗なパスワークで敵の守備組織を破壊する『シャンパン・フットボール』が代名詞。だが、知将エメ・ジャケの率いるチームは、選考から戦法に至るまで、妥協のないリアリズムに貫かれていた。
強化の過程において、パパン、カントナ、ジノラの三大スターを切り捨て、若い才能を軸にチームを再編。複数の選手やシステムを試すやり方に批判が集まったが、万が一の備えにすぎず、頭の中ではシステム(4-3-2-1)を含め、ベースは固まっていた。
強固な守備から、ジダン経由でダイレクトに相手ゴールへ迫る。
その戦法は、当時のクラブシーンにおけるトレンド、言わば『世界標準』のフットボールだった。
フランス・オリジナルの「シャンパン」から、競争市場において次々とコピーされるグローバル・スタンダードへ――。これが、トリコロールの新境地を開拓する、2つ目のカギだった。
(1月29日公開の後編に続く)