上写真=2010年12月4日に行なわれた横浜FMでの退団セレモニー(写真◎J.LEAGUE)
古い友人からの深夜の電話
2011年の8月のある日、深夜にベッドの横で携帯電話が震えていた。着信だ。誰だろう、こんな夜中に。浅い目覚めの中でぼんやりとそう思いながら、携帯電話が静かになるのを待ってそのままもう一度眠りに落ちた。
翌朝、着信の相手を見て少し不思議に思った。古い友人からだった。お互いに忙しかったこともあってしばらく会えずにいて、そのうち連絡も途絶えていた。
でも、突然深夜に連絡が来るなんて、理由が分からなかった。きっと、間違い電話だろうな。酔っ払って別の人にかけようとして、間違って通話ボタンを押しちゃったんだろうな。まあ、そのうち折り返してみようか。そう思っているうちにまた雑事に追われて、そのままになってしまっていた。
このことを私はものすごく後悔することになる。
8月4日に松田直樹が死んだ。横浜F・マリノスとの契約が延長されず、「オレ、マジでサッカー好きなんすよ。マジで、もっとサッカーやりたい」の言葉をサポーターに捧げて、当時JFLだった松本山雅FCに移籍した。8月2日の練習中に突然倒れ、救急搬送されたものの帰らぬ人となった。急性心筋梗塞。享年34歳。
最初に「松田が倒れた」と聞いたとき、何の根拠もないのに「ヤツなら大丈夫だよ」と思ったのは確かだ。だって、マツだぜ、そんなにヤワじゃないでしょ、と思い込んでいた。今から思えば、それは私なりの祈りだったのだ。
2日後に、本当に亡くなったのだと聞いた後、当時の週刊サッカーマガジン編集部に駆け込んだ。そのとき私は編集部から離れていたのだが、自分に何かできることをやらせてもらえないだろうかと北條聡編集長にお願いしに行った。私が最初に担当したJクラブは横浜マリノス(当時)だったし、松田のことはプロ入り前から取材していて、1995年のJリーグ優勝で号泣する姿を見届けていたから勝手な思い入れがあった。それに、何よりも彼の死を前にして心は落ち着かず、あちこちに跳ね回っていて考えるより先に行動に出ていた。
北條編集長もアトランタ・オリンピック代表や日本代表の担当として松田とは深い接点があった。だから、編集者の自分たちにできることとして、追悼のための一冊を作りたいと考えていた。私もそこで少し書かせてもらえることになった。
追悼号はいまでも大切に保管してある。8年後のいま、そこに掲載してもらった一文をもう一度読み返してみた。
やっぱりあのときはとても感情的になっていたみたいだ。青臭く、自分勝手で、彼のためになっているのかどうか分からない文章を、よくも書いたものだと呆れるばかりだ。だが、その甘さも含めて感じていただければと思い、以下に再掲させてもらいたい。
ハートに火をつけて〜松田直樹追悼号より
どこかで誰かが、松田直樹が死んだと言っている。ならばきっと、そうなのだろう。
本当に、本当に申し訳ないのだけれど、分からないのだ。人が死ぬことについて、何よりも「松田直樹が死んだとされること」について語るべき正しい言葉を、僕は持つことができない。
◇
松田直樹と初めて話をしたのは、彼が高校3年生の冬、前橋育英高校でのことだった。横浜マリノス入りを目前に控え、サッカーマガジンにインタビューを掲載するためだ。
記事には、「ゆるやかな陽気が顔をのぞかせた日」に「黒の詰め襟の学生服姿で現れた」とあるが、正直に書くなら、1995年に入って間もないころの話だから、たいしたことは覚えていない。学校のすぐ横を流れる利根川の土手までぶらぶらと歩いていって、タイトルカットになりそうな写真を撮影したこと。帰り際に校門のあたりで、自転車にまたがったまままくしたてた彼の恋愛自慢が、インタビューそのものよりも盛り上がったこと。そのぐらいだろうか。僕の記憶なんて圧倒的にあやふやで、衝撃的に頼りない。
でももちろん、強烈に覚えていることだってある。松田はこんな風に言ったのだ。
「イハラを抜くよ。オレ、ハタチまでに代表に入るからさ」
不思議な男だ。かっとんでるヤツだ。なにしろ、日本一のDFとして名を馳せていた、かの井原正巳のことを、無機質に(いや、むしろ意図的に?)「イハラ」と記号化してしまったり(あとでちゃんと「さん」をつけたけれど)、当時は珍しかった「20歳での日本代表入り」を宣言したりするわけなのだ。
あ、コイツおもしれえ。
そう思った記憶が、ふっと頭をよぎる。
それからの活躍ぶりと「武勇伝」については他に譲るが、プロ1年目の開幕戦から本当に「イハラ」とともに守備の要となり、そのままJリーグでチャンピオンになったのは痛快だった。僕の念願だった「イハラ」と松田の対談が実現したのは、その翌年のシーズン開幕前だ。
結局のところ、そんな「おもしれえ感」がいい方にも向いたし、悪い結果ももたらした、ということになるのだろう。コイツ、すげえ、とうならされることも、「ったく、どうしようもねえな」と顔をしかめるしかないこともあった。
でも、今さらこんなことを書くのはフェアじゃないかもしれないけれど、僕はただうらやましいだけなのだ。
その真っ直ぐさと面倒くささ。燃えるような心持ちと、だからこその危うさ。ぶっきらぼうのくせに、いやに気遣いが細やかで、豪傑のようでいて、脆い。もちろん、彼のすべてを知っているわけではないけれど、そうやって(表向きは)自分の心に実直に生きているように見えて、うらやましかったのだ。
だから、決めた。
「松田直樹のおもしれえ感」を自分の体のどこかに取り込んでやろう。そしていつか、道に迷ったときに、圧倒的に不器用だけど、衝撃的に正直な松田直樹的な態度で闘ってやるんだ。
松田直樹を忘れることのできないたくさんの人たちが祈りを捧げるのと同じように、彼がいつまでも僕の「心の導火線」であり続けてくれますように。
それではあまりにも、松田直樹に甘えすぎだと分かってはいるのだけれど。
(2011.9.3 No.1361 『週刊サッカーマガジン増刊 追悼特別号 松田直樹 1977−2011 サッカーに殉じた熱血漢』より)
友人が言った「話がしたかったんだ」
2011年8月のある日の深夜に私に電話をかけてきた友人と、その数年後に再会することができた。とても懐かしく、昔話はなかなか終わらなかった。
実は友人は、偶然にも松田と私の共通の知り合いだった。それを思い出して、松田のいろんなことをひとしきり話したあと、あの深夜の電話のことをたずねてみた。そう言えば随分前に電話が入ってたんだけど、間違いだったんだよね?
友人は「違うよ。電話したんだよ。話がしたかったんだ、マツのことで。他に話せる人が周りにいなくて」と努めて明るく笑いながら言った。共通の友人である男が若くして死んで、彼の思い出について話す相手がほしかったというのだ。私も同じ気持ちだったというのに、どうして電話に出なかったんだろう。どうしてすぐに折り返さなかったのだろう。
猛烈に悔やんだ。
そしてこのとき、本当に「松田直樹」は死んでしまったのだと知った。
あれから8年が経って、松田に対して恥ずかしくない時間を過ごしたかどうか、はなはだ怪しいけれど、私はそれでもなんとか生きている。
改めて、合掌。
文◎平澤大輔(元週刊サッカーマガジン編集長) 写真◎BBM、J.LEAGUE