上写真=98年のフランスW杯に出場した当時18歳の小野伸二(写真◎BBM)
携帯電話が怖い
近代の日本サッカー史を人間の一生に例えるなら、初めてワールドカップに出場した1998年前後から、自国開催のワールドカップの熱狂が凄まじかった2002年あたりまでが、いわゆる「青春」に当たるのではないだろうか。
青春を謳歌する当事者のほとんどがそうであるように、自分が青春真っ只中にいることの自覚はおぼろげながらにあったとしても、本当の価値はその時期をあっという間に通り過ぎたあと、しばらく経ってからようやく分かるもの。そこにかかった時間の分だけ記憶のいろいろが熟成されて甘酸っぱくなるものだが、私からすればあの頃のことはそろそろ「甘」が消えて「酸っぱい」だけになってしまいそうで、その前に振り返っておくことにする。
初めてアジア予選を突破して本大会に出場したフランス・ワールドカップ。日本の初戦は6月14日、ツールーズでのアルゼンチン戦だった。サッカーマガジンの特派記者としてフランスに入っていた私は、実はこのアルゼンチン戦を取材できていない。
当たり前だが、サッカーマガジンとしても「日本が出場するワールドカップ」を取材するのは初めてで、しかも私自身が過去のワールドカップの取材は未経験だった。どのような取材態勢で臨むのかという点については諸先輩方が方向性を決めてくれたが、記者とカメラマン、合わせて8人のスタッフが手分けしてどの試合の取材に当たるか、その割り振りが大切になってくる。それを私が組み立てるように命じられたのだった。
ロジスティックス、いわゆる後方支援は実際の取材と同様に重要なミッションだった。宿泊先の手配は旅行会社に協力を仰いだが、担当する試合を決めるだけではなくて、会場までの移動手段を調査してシミュレートし、一人ひとりに提案するのも私の役目になった。
噛み砕いていうと、例えば「Aさんはまず、この試合を取材してほしいので大会事務局に申請してください。最初の試合はマルセイユなので、パリからこの時間のこのTGV(フランスの新幹線)に乗れば間に合いますので、予約をしておいてください。試合後の取材が終わったらいつまでにこの分量の原稿を書いて東京の編集部に送ってください。宿はここです。翌朝は早くて申し訳ないけれど、この電車でナントに移動して、この試合の取材をして、終わったら……」という行程表を全員分、延々と作り込んだ。インターネットを気軽に利用できる以前の話である。調べるだけで時間ばかりかかり、やっとそれぞれにアナウンスできたと思うと矢継早に質問が飛んできて、また一つ一つ確認しては答えていった。
そんな苦労の甲斐あって、現地に入ってからも最初から最後まで全員がスムーズに取材することができた…という奇跡が起こるはずはなく、想像をはるかに超えて大小さまざま、多種多様なトラブルが次から次へと飛んできた。その度に私のレンタル携帯電話がけたたましく鳴るのだ。
そもそも、当時のレンタル携帯電話はちょっとした弁当箱ほどの大きさがあって、充電器もでかい。その重みだけでも存在感たっぷりなのに、バイブレーション機能もなかったから着信があれば音が鳴る。鳴ればつまりそれはトラブルの合図。怖くて怖くて仕方がなかった。
その電話に、日本代表を密着取材している先輩・伊東武彦さんから着信があった。ツールーズで行なわれたアルゼンチン戦の直後のことだ。
私はサンテチエンヌのスタジアム「ジョフロワ・ギシャール」にあるプレスセンターのテレビで0-1の惜敗を見届けていて、電話口に向かって「いやあ、残念でしたねえ」と呑気に話したら、空気が凍ったのを感じた。「スケジュール全部組み変えろ。残り2試合、お前も来い」。私は当初の予定では、アルゼンチン戦だけではなく、クロアチア戦もジャマイカ戦も取材のメンバーに入っていなかった。しかし、初戦でいきなり締め切りとのギリギリの戦いを強いられ、残り試合で同じ状況になる危険を避けなければならない、という判断だった。
こうして、少なくとも続く2試合は取材できるチャンスが巡ってきた。自分でスケジュールを組みながら、日本の試合を取材できないことの寂しさを感じていたので、この突然の指令は実はうれしかった。
ワールドカップ初ゴールと物語性
6月20日、酷暑のナントで迎えたクロアチア戦は、0−1だった。
スケジュールを変更したことでこの試合の取材申請が大幅に遅れたので、きちんと許可が降りるかどうかがまったく分からなかった。当時はプレスセンターの窓口で予定変更と追加申請を伝えるしかなく、フランス語はもとより英語もおぼつかない身では、とにかく緊急性が伝わるように大げさな身振りと大声と早口のコンボでまくしたてるしか方法はなかった。しかも、その結果は当日のスタジアムに出かけていって、プレスセンターに備え付けられているイントラネットにつながった端末で確認するしかなかった。
不安だらけのまま、とにかくナントのスタジアム「ボージョワール」に向かった。着いてすぐに慌てて端末を叩くと、取材が認められた記者の長い長いリストの最後の方にようやく自分の名前を見つけた。心底ホッとした。
ただ、本当の仕事はここからである。私は主にマッチリポートや記録、選手採点のページを担当することになった。歴史的な初めてのワールドカップだから、いつも以上にシンプルに丁寧にピッチの上の現象を書き残すことに集中した。
「好感触。日本の持ち味を十分に出し切った前半は、この言葉がぴったりと当てはまる」で始まるマッチリポートは、いま読み返してみてもおおむね肯定的な論調のまま進んでいる。思惑通りの攻撃を仕掛け、守備でも集中力を保って、ゲームプランに大きく狂いのないまま試合を運んでいったことがここからも分かる。
でも、勝てない。結果的にはこちらのミスがきっかけで、ワールドクラスのストライカー、ダボール・シュケルに得意の左足でゴールを割られてしまった。岡田武史監督がつぶやいた「世界の壁。ゴールは遠かった」という悔恨で記事は終わっている。
そして6月26日、「食の街」リヨンでのジャマイカ戦。
2連敗でグループステージ敗退が決まったあとの第3戦、という現実は最も遠ざけたいものだったが、90分を終えたあとではさらに悔しいことになった。ご存知の通り、この試合も1-2で敗れて、日本は初めてのワールドカップを3連敗という最悪の結果で終えた。
ただ、明るい話題もあった。まずは日本のワールドカップ初ゴールが生まれたことだ。2点のビハインドで迎えた74分、左サイドバックの相馬直樹のクロスを中央でFW呂比須ワグナーがヘッドで落とし、FW中山雅史が右足でゴールに蹴り込んでいる。中山はゴールの後に足を痛めながら最後まで戦い、のちに腓骨を骨折したまま走り回っていたことが判明、初ゴールの名誉に彼ならではの物語性も加えている。
そして、小野伸二だ。
ニッポンサッカー、アオハルかよ
初ゴールの5分後、当時18歳だったミッドフィルダーが背番号11を躍らせてピッチに登場した。そこからの11分とアディショナルタイムでボールに絡んだアクションを、順に番号を添えて殴り書きした跡が取材ノートに残っている。
(1)左足ナナメパスは失敗
(2)股抜き左S(Sはシュートの意)
(3)右足で左の9(中山)へパス
(4)右で受け、右2(名良橋晃)へ
(5)2からもらって2へリターン
(6)6(山口素弘)のパスを受けて縦へ出るが倒される
(7)2の縦パスをH(Hはヘッドの意)
(8)中田から横パスもらって外の2へ
(9)12(呂比須)へクロス送る
衝撃だったのは(2)のプレー。ワールドカップのデビューの場で、いつもと変わらずに遊ぶように軽やかに、相手の股を抜いてからそのままのリズムでシュートを放つ余裕に驚いた。
でもその驚きは、「経験の少ない18歳の少年がいきなりこんなことができるなんて!」であり、いまになってみれば、18歳=未熟という浅はかな固定観念に私が支配されていただけだと恥ずかしくなる。本人はそれほど意に介していないというか、淡々としていたのが試合後の印象だった。
そんなミックスゾーンでの小野の言葉もノートに走り書きしてある。
「ワールドカップは見ているのと変わらなかったです。11分しかプレーできなくて残念です。もう少しできればよかった。(大会を通じてほとんど試合に出られなかったので)忍耐力を学びました」
「やれるだけのことはやりました。この11分を次につなげようという気持ちはありました。でもあれだけだと分からないですね。最初から出ていれば分かるでしょうけど」
「岡田監督からは点に絡む意識を持ってシュートで終わってこいと言われました。それまでを見ていて、中途半端でしたからね」
「プレーは全部フィットしました。満足はしていないけれど、すべてを出しました。(1−2の場面で入って)逆転できるかはやってみなければ分からないけれど、勝たなければいけないと思っていました」
「(良かったプレーは?)シュートに行った場面と呂比須に出したラストパスはまあまあかな」
「時間が少なかったので、満足かどうかという問題ではないですね。最初から出ていないと、そういうことは言えないんで」
いずれにせよ、3連敗の痛みがほんの少しでも癒やされたのは、小野の11分間のきらめきがあったからだった。そして、この大舞台であっても試合に出られなければ自己評価もなにもないという意見を、強烈な自我として堂々と表現した彼の言葉があったからだった。未来は明るい。記事にはそう書いた。そしてその後、実際に明るい未来を見ることができた。
それでも、あの時の自分に「いまはまだ生まれてもいないけれど、これから21年後に、小野がワールドカップに初めて出場したのと同じ18歳になる日本の少年を、あのレアル・マドリードが獲得することになるんだよ」と教えても、あまりにもセンスのないジョークとしか受け止めてもらえないだろう。
でも、サッカーはこんな風にして続いていくんだな、と2019年6月の地平から1998年の6月を見て感じることができるのは、とても幸せなことだ。私にとっては「2人目の18歳」である久保建英が、ニッポンサッカーを次のアオハルに連れて行ってくれるだろうという期待で、年甲斐もなくワクワクしている。
文◎平澤大輔(元週刊サッカーマガジン編集長) 写真◎BBM