上写真=ついにアジアの頂点に立った鹿島アントラーズ(写真◎Getty Images)

 Jリーグの開幕25周年を記念して、開幕から取材してきた記者がその歩みを振り返っていくこのコラム。11回目となる今回は、最多タイトルを獲得している鹿島アントラーズがテーマだ。アジア・チャンピオンズリーグ(ACL)を見事に制して20冠に到達した「常勝軍団」。彼らを支えるジーコイズムとは何なのか。そのしっぽだけでもつかんでみたい。

文◎平澤大輔(元サッカーマガジン編集長) 写真◎J.LEAGUE PHOTOS

リビング・レジェンド

 オブラディ! オブラダ!

 鹿島アントラーズがACLを制して、クラブとして20個めのタイトルを獲得した。本当におめでとうございます。サポーターの皆さんの勝利の歌『オブラディ・オブラダ』を、許されることなら一緒に歌いたい気分だ。

 2018年11月10日。イランはテヘランのアザディスタジアム。そのメインスタンドで、最初に優勝カップを掲げたのは小笠原満男だった。続けて、曽ヶ端準。ともに1979年生まれ、98年に鹿島に加わって数々のタイトルを手にしてきた「リビング・レジェンド」(生ける伝説)である。

 今季、出番を減らしている2人のベテランは、この決勝第2戦でもピッチに立っていない。ベンチには入っていたが、有事に備えながら仲間を鼓舞する役割を全うして終わった。それでもなお、キャプテンマークをつけた昌子源や遠藤康らに促されるようにして小笠原が仲間の中央に引っ張り出され、優勝カップを渡されると、照れくさそうに、でも誇らしげに右手を上げてゴール裏のサポーターに合図をしてから、一つかがみ込んだあとに両手で高々と天に盃を突き上げた。

 その瞬間、見ているこちらの胸にこみ上げてくるものがあって、それがしばらく止まらなかったことを、正直に告白しておく。

 理由は二つある。私が2000年から03年まで、そして05年に鹿島の担当記者であり、ちょうど小笠原や曽ヶ端らの勇躍する姿をつぶさに観察し、誌面で紹介することができた、という個人的な事情が一つ。
 もう一つは、「ジーコイズム」と呼ばれるものの果実が、あの表彰台にたわわに実っていたと感じたからだ。

負けないからつまらない

 鹿島がこの25年間、途切らせることなく次代へと紡ぎ続けてきた「ジーコイズム」とはなんだろう。人によって解釈は異なるかもしれない。ただ間違いなく言えるのは、勝つことである。それも、徹底して勝つことである。

 タイトル歴を見ておこう。Jリーグでは8回、チャンピオンになった。1996、98、00、01、07、08、09、16年だ(ちなみにステージ優勝は6回で、93前期、97前期、98後期、00後期、01後期、16前期)。リーグカップで6回、97、00、02、11、12、15年に頂点に立った。そして天皇杯で凱歌をあげたのは97、00、07、10、16年の5回だ。ここに18年のACLを加えて20冠となるのだが、ほかにもゼロックススーパーカップ7回(97、98、99、02、09、10、17)、A3選手権1回(03)、スルガ銀行チャンピオンシップ2回(12、13)がある。

 中でも00年は思い出深い年だ。ジーコのブラジル代表での僚友であるトニーニョ・セレーゾが監督に就任すると、リーグ、リーグカップ、天皇杯の3大タイトルすべてで優勝したのだ。Jリーグ発足以来、シーズン三冠を達成した初めてのクラブとなった。

 確かに盤石だった。高桑大二朗が守護神としてそびえ、名良橋晃、秋田豊、ファビアーノ、相馬直樹の4バックは高度の機能美を有していた。熊谷浩二と中田浩二のボランチがあふれる運動量と守備の感性で相手の侵入を許さず、その前のエリアでは、円熟のビスマルクと新進気鋭の小笠原満男が持ち前の技術で敵陣の穴を突き刺し続けた。00年のシドニー・オリンピックでも重要な役割を担った柳沢敦と平瀬智行の2トップコンビが前線をかき回した。ベテランのボランチ本田泰人、天才的なドリブルを持つスーパーサブのMF本山雅志、帰ってきた熱きFW鈴木隆行、徐々に出番を増やしてきた曽ヶ端準らの控えメンバーも充実していた。

 まずはリーグカップ(ヤマザキナビスコカップ)。11月4日の決勝では、初タイトルを狙って意気込む川崎フロンターレを中田とビスマルクのゴールでいなして2-0の勝利、この年最初のタイトルを獲得する。

 リーグ戦では8位に終わった失意のファーストステージから逆襲、セカンドステージで15試合を10勝4分け1敗で制した。4点差勝利が1試合、3点差勝利が2試合、2点差勝利が2試合で、残りの5試合、つまり勝利のうち50パーセントがシビアな1点差勝利だったのは鹿島らしい。横浜F・マリノスとのチャンピオンシップでは、第1戦の0-0のあとの第2戦(12月9日)で鈴木、名良橋、中田による3発で3-0の完勝、3度目の日本一の高みに立った。

 締めくくりの天皇杯では、2001年1月1日の決勝で清水エスパルスと対戦。小笠原と鈴木のゴールで2度、リードを奪いながら追いつかれる展開で2-2のまま延長戦に突入したが、小笠原のスーパーボレーシュートによるVゴールで3冠を達成した。

 この頃、編集部ではよく「鹿島は負けないからつまらない」と言いがかり(?)をつけられたものだ。

イタリアとブラジル

 そんな嫉妬ややっかみをも引き出す「ジーコイズム」は、選手の側から見ればどんなものだっただろう。00年当時の誌面や取材ノートを改めて見返すと、ヒントが山のようにあふれ出てきた。

 例えば、無尽蔵に走り続けた中盤のボールハンター、熊谷はこんな風に言い切っている。

「イタリア的ですね。やり過ぎなくらい」

 三冠チームが武器としていた堅守と速攻をそう評した。監督のトニーニョ・セレーゾは現役時代を長くイタリアの名門ローマ、サンプドリアで過ごしている。その影響だろう。

 例えば、左サイドバックとして日本代表でも活躍を続けた名手、相馬はこう言う。

「ブラジル風ですね」

 少ない人数でも楽しみながら相手の逆をとり、あふれる想像力でゴールを仕留めていく。そんな華麗な攻撃陣、小笠原、ビスマルク、平瀬、柳沢らへの賛辞を惜しまない。

 イタリア的でありブラジル風でもあり、日本の選手が戦う。短絡的かもしれないが、その渾然一体から良質の部分が絞り出された濃厚な思想が、「鹿島におけるジーコイズム」なのかもしれない。

 余談だが、サポーターが勝利を祝って歌う『オブラディオブラダ』は、言わずと知れたビートルズの曲。リバプール出身のビートルズが歌った唯一のレゲエ調の曲として知られており、こちらはイギリスと中南米のミックス。こじつけだが、さらに国際色が豊かになる。

壁の端から2番目の頭

 思想がいくら高尚でも、実体が伴わないと信頼が置けない。鹿島の場合、それが「技術」なのだと確信できたエピソードを思い出す。

 プロになったばかりの小笠原、本山、中田たちが全体練習後にフリーキックの練習をしていた。黄金ルーキーと呼ばれた彼らでも、壁を越してボールをゴールに送り込むのは数えるほどだった。

 その様子をしばらく遠くで見守っていたジーコが彼らに近寄ると、一言だけアドバイスを残した。

「壁の端から2人目の頭の上を狙ってみなさい」

 すると、どうだろう。まるで魔法にかかったかのように、次から次へとボールがゴールに吸い込まれていくようになったのだという。

 住友金属で監督も務め、当時は広報だった野見山篤さんから聞いた話なのだが(野見山さんもびっくりしたようで、目を丸くして興奮気味に話してくれた)、その成果は多くの人が目撃している。

 01年のJリーグチャンピオンシップ。ジュビロ磐田と激突したこの頂上決戦で、初戦の2-2のドローを受けて迎えた第2戦は決着がつかず延長戦に入っていた。100分、ゴールやや左で鹿島がフリーキックを得た。蹴るのは小笠原。右足で丁寧に送り出したボールはまさに壁の右から2人目、鈴木秀人の頭の横を抜けてゴール右に飛び込んでいったのだ。このVゴールで鹿島はJリーグ連覇を成し遂げた。

 ジーコは理論より感情の人で、緻密な戦術を積み上げることよりも選手の心を揺さぶるタイプだという見方は強い。でも、このエピソードを思い出すたびに思うのは、ジーコはただ「戦え」と口角泡を飛ばしていたのではなく、「しっかりとした技術を身につけて、その技術を最大限に生かすために頭を使って戦え」と教えていたのだと気づくのだ。

 アザディスタジアムのスタンドで弾ける笑顔を見て、そんなことを思っていた。

 変えてはいけない部分は決して変えない。でも、変えてはいけない部分がどこにあるのかを見極めるのが一番難しい。

 25年が経過してもその点において判断を間違わず、苦境から逃げず、信じて続けてきたという事実が、このACL優勝を、そしてもちろん、鹿島アントラーズというクラブそのものの価値を高めているのだと思う。

 ところで、20冠を手にしたばかりだというのに、このチームはその後のリーグ戦で勝ち続け、天皇杯でも勝ち上がっている。勝てば勝つほど、勝利に貪欲になる。なぜなら、それがジーコイズムだから。

 まったく、あきらめの悪い奴らだ。


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