テゲバジャーロ宮崎でプレーしていた工藤壮人さんが、10月21日に死去した。2日に体調不良を訴えて水頭症と診断され、17日から集中治療室で治療に専念していたが、32歳の若さで帰らぬ人に。取材した機会は多くなかったが、いつも周囲への気遣いを忘れない、優しい人だった。

上写真=今季から宮崎でプレーしていた工藤さん。21日に亡くなったことが発表された(写真◎石倉利英)

真摯な取材対応

 工藤壮人さんが亡くなった。21日はJリーグYBCルヴァンカップ決勝の前日練習を取材し、かつて所属したサンフレッチェ広島のGK大迫敬介やMF川村拓夢が、闘病中の元チームメイトへの思いを語るのを聞いていたのだが、その矢先の訃報だった。

 柏レイソル時代は直接、話を聞く機会がなかったが、足が速いわけでも、体が大きいわけでもないのに、なんだかんだゴールは決めるなあ、と感じていた。初めて話をしたのは、広島に加入した2017年。16年末、広島入りを決めた後に初めてメディアのインタビューに登場してくれたのがサッカーマガジンだったので、最初にお礼を言ったら「いやいや、とんでもないです」と恐縮して、ずいぶん腰が低い選手だな、と思ったことを覚えている。

 17年の広島は、長らくエースとして君臨していた佐藤寿人が名古屋グランパスに移籍し、前年にJリーグ得点王に輝いたピーター・ウタカはFC東京に期限付き移籍していて、工藤さんには新しい得点源としての期待がかけられていた。明治安田生命J1リーグ開幕戦、先発出場したストライカーはスコアレスで迎えた57分、味方のシュートが相手DFにブロックされたこぼれ球を蹴り込んで先制点。「やっぱり、なんだかんだゴールは決めるんだな」とうならされた。

 ただ、その後に追い付かれて1-1で引き分けた広島は、第2節から4連敗を喫し、残留争いに巻き込まれていく。工藤さんは第6節でシーズン初勝利につながる決勝ゴールを決め、救世主になるかと思われたが、チーム状態は好転しない。7月に森保一監督が退任した広島は、何とかJ1残留を果たしたものの、工藤さんは先発から控え、やがてベンチ外となり、リーグ戦3得点に終わった。

 そんな苦しいシーズンでも、取材となれば真摯に対応してくれて、周囲への気遣いを忘れない人だった。マツダの車に試乗するファンクラブ誌の取材では、フォトグラファーのリクエストに「これでいいですか」などと応じながら何度もポーズを取ってくれる。クラブをサポートしてくれている飲食店を訪れる取材では、口下手な宮吉拓実から言葉を引き出そうと、たくさんイジって盛り上げてくれた。

 最後に会ったのは今年の6月19日、明治安田生命J3リーグ第13節・ガイナーレ鳥取との試合前。ピッチでのウォーミングアップを終えて、控室に戻る階段を上ってくるところで出くわした。数年ぶり、しかもこちらはマスク姿なのに顔を覚えてくれていて、「おお!」と言いながら、コロナ禍のご時世なのでグータッチをしようと、右手を差し出してきた。

 筆者も応じようとした次の瞬間、工藤さんは「あ!」と言いながら右手を引っ込めて、ユニフォームで手の汗をぬぐってから、もう一度差し出してくれた。ああ、やっぱり気遣いの人なんだな、と思いながら「頑張って!」「ありがとうございます!」と短く言葉を交わした。

 試合後に話を聞こうと思っていたが、ハーフタイムで交代し、チームも敗れたので、そんなときにストライカーに話を聞くのは酷かな、と思って別の選手にした。まさか、もう取材する機会がなくなってしまうなんて、そのときは思いもしなかった。

 心からご冥福をお祈りいたします。

文◎石倉利英


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