1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第38回は67年に史上最年少で得点王に輝いた木村武夫について綴る。

74年に東京農業大に入学

画像: 74年の関東大学リーグ。法政大戦でプレーする東京農業大時代の木村武夫(中央/写真◎サッカーマガジン)

74年の関東大学リーグ。法政大戦でプレーする東京農業大時代の木村武夫(中央/写真◎サッカーマガジン)

 10月に再開されたJSL後期では第8節、第9節とゴールがなかったものの、第10節の鋼管戦で2得点。続く国立競技場でのヤンマー戦でも川淵三郎のCKをヘディングで決めて先制ゴールをマークした。だが、後半開始直後に相手へのタックルがラフプレーとみなされて退場処分に。翌節は出場停止となり、第13節の首位東洋工業との優勝をかけた一戦でも得点できず、2ー2で引き分けため、最終戦で東洋が敗れ、古河が勝たなければ優勝できない状況となった。

 三菱との最終戦では木村がヘディングで先制したが、前半のうちに杉山隆一のゴールで追いつかれる。後半にも木村が再びリードを奪う2点目を決めたが、その後も追いつ追われつのシーソーゲームとなって3-3で引き分けた。同日、八幡と対戦していた東洋は1-0で勝利をつかみ、リーグ3連覇を達成。ただ、古河は優勝を逃したものの、過去最高の2位となり、2点を挙げた木村は15得点で得点王に輝いた。この日の最終戦でヤンマーの釜本が4ゴールを挙げて14得点にまで迫っていただけに、この日の2ゴールで逃げ切ることになった。

「得点は右サイドからの川淵さんのセンタリングと、中盤の八重樫さんのパスをもらってからが多かった。みんながうまくコントロールしてくれて、僕が走ったところへボールが来ました。ただ、まだ技術がなかったので、失敗も多かったですけどね」と、後にサッカーマガジンの取材に語っているように、日本を代表するベテランがそろっていたチームで持ち味を引き出された結果だった。

 20歳の若さで得点王、ルックスも良く、当時もサッカー界のニュースターとして取り上げられたが、今ならメディアの格好のターゲットとなり、人気を博したことだろう。

 しかし、翌年のオリンピックメンバーに最後で落選すると風向きが悪くなる。「相手に研究されたことですね。ボールコントロールが下手だったのでスペースが必要だったのですが、それを消された」とプレーヤーとしての成長曲線は止まり、得点数は半減してしまう。加えてベテランが多かったチームの総合力が落ち始め、得点をアシストしてくれた名手たちがピッチを去ると、自身もヒザの負傷に悩まされるなど悪循環が続いた。67年からは3年連続で6得点、71年、72年は3点にとどまり、ゴールゲッターとしての輝きは失われていく。

 だが、74年には一念発起して会社を辞め東京農業大に入学して心身とも鍛え直した。その後結婚を機に高橋姓を名乗り、東芝で選手、指導者として実績を残すことになる。Jリーグがスタートした後には札幌に移ってコンサドーレの立ち上げに尽力。クラブの初代監督も務めるなど基礎を築き、日本サッカー界に大きな足跡を残している。(文中敬称略)

著者プロフィール/くによし・よしひろ◎1954年11月2日生まれ、東京出身。1983年からサッカーマガジン編集部に所属し、サッカー取材歴は37年に及ぶ。現在はフリーランスとして活躍中。日本サッカー殿堂の選考委員も務める。


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