1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第37回は85年に覚醒した西野朗について綴る。

上写真=西野朗は日立でなかなか本領発揮できなかったが85年は大爆発した(写真は86年/サッカーマガジン)

文◎国吉好弘

才能豊かなMFも日立入団後は苦しむ

 日本サッカーリーグ(JSL)27年の歴史の中で得点関連の記録と言えば、ほぼ釜本邦茂(ヤンマー)が独占する。通算得点202(2位の碓井博行は85点)をはじめ、得点王7回、ハットトリック13回、最多得点試合132試合と他の追随を許さない。そんな中で唯一、連続得点記録は別の選手が8試合連続で並ぶ。1985年に記録を達成した西野朗(日立)だ。

 周知のように現役引退後には、日本をオリンピック代表監督として28年ぶりに本大会に導き、ガンバ大阪の監督として数々のタイトルを獲得。Jリーグ通算最多勝利監督でもあり、2018年ロシア・ワールドカップでは日本代表をベスト16に導くなど、指導者として実績を築いた。

 選手としても早稲田大学時代に20歳で日本代表に選ばれる才能豊かな攻撃的MFだったが、なぜかJSLの日立に入ってからは徐々に存在感をなくしてしまう。入社3年目の1980年に6得点を挙げたものの、チームは5位。そこからはじり貧で、84年には10チーム中最下位となった。しかし85年シーズンからチーム数が12に増えるという幸運で残留。個人的にもそこまで強い印象を残せなかった。

 ところが、85年に突如として覚醒する。序盤は第8節まで勝ちがなく、3分け5敗と降格をまぬかれない成績だったが、第9節で読売クラブを3-1で下して初勝利を挙げると状況は一変。11月17日、西野の出身地である埼玉県浦和市(当時)の浦和駒場競技場で行なわれたこの試合で開始4分に得たPKを決めて自身もシーズンの初ゴールを決めた。

 続いて鹿島での第10節の住友金属戦で、88分にCKからの流れでヘディングシュートを決めて2-1の勝利の決勝点とした。11月30日には大宮サッカー場(現NACK5スタジアム大宮)で全日空との第11節でもPKを決め2-1の勝利。12月7日にも大宮で住友金属と戦い、右からのクロスをヘッドで決めこれも2-1で勝った。

 ちなみに大宮サッカー場は2001年に埼玉スタジアムができるまで、長く高校選手権の埼玉県予選決勝の舞台となっていた埼玉の高校サッカー選手には憧れの舞台。西野も高校3年生の時には浦和西高を率いて自らの決勝ゴールで本大会(まだ関西で開催)へ導いた。85年の日立は、この大宮と浦和駒場での試合が多く、西野の活躍を後押ししていたのかもしれない。


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