1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第36回はJSL誕生につながる提言について綴る。

若き指導者たちの尽力

画像: 1966年の第2回のJSL、東洋対古河(2-0)。全国規模のリーグ戦が日本サッカーのレベル向上につながった(写真◎サッカーマガジン)

1966年の第2回のJSL、東洋対古河(2-0)。全国規模のリーグ戦が日本サッカーのレベル向上につながった(写真◎サッカーマガジン)

 この提言の中には「ホーム・アンド・アウェー方式のリーグ戦をできれば全国規模で行なうこと」という項目があった。それまで日本の全国大会と言えば勝ち抜きトーナメントが主体で、総当たりのリーグ戦は関東、関西の大学で秋季に行なわれていたくらい。実業団のチームが台頭して大学勢を凌駕しようとしていた時期に、強豪同士がコンスタントに真剣勝負をする舞台が少なかった。

 クラマーはそれが重要な問題だと説いて、提言に残す以前から常日頃口にして周囲に改善を求めていた。岡野をはじめ日本代表監督の長沼健ら若い指導者たちはその必要性を理解しており、すぐに動き出した。クラマーが帰国した翌月には実業団5チームの代表と主な大学の監督を集めてリーグ結成の打ち合わせ会議を開いている。

 同時に竹腰重丸理事長を中心とする協会サイドでもクラマーの提言を受けて、この年の天皇杯全日本選手権にリーグ戦を取り入れる試みを実行した。これまでのように全国の予選を行なわず、各大会の優勝チームなど実績のあったトップクラスの10チームを集めて2組に分け、それぞれ総当たりで対戦させ、両組の勝者が決勝を争うというもの。

 しかし、1月11日から17日まで1週間の大会期間で、5チームによるリーグ戦と決勝戦を行なう日程はあまりにも過酷だった。試合を重ねるごとにプレーの質は落ち、古河電工と八幡製鉄が進んだ決勝ではともに攻撃に力を発揮できず、2度の延長を戦っても得点なく0-0で引き分けて大会史上初めて両者優勝となった。古河など「連戦でケガ人が続出、チームの半数が試合前に病院で痛み止めの注射をして出場した」(鎌田光夫・天皇杯65年史より)という状況だった。強豪同士が対戦する機会を増やすとはいっても、短期間に詰め込んでも意味がないことは明らかで、この方式は第44回大会の一度だけに終わった。

 代わって若き指導者たちが精力的に動き、さまざまな問題をクリアして開催にこぎつけたのがJSLだった。65年4月にスタートしたリーグは東京オリンピックの影響もあって大きな関心を集めてスタート。代表選手たちのレベルアップも促し、メキシコでの銅メダル獲得につながった。JSLの誕生は協会内の実権が世代交代する象徴だったように見える。(文中敬称略)


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