1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第35回は数々の名勝負を生んできた『西が丘』について綴る。

上写真=72年、西が丘で開催された東西対抗第1戦。ジャンプしているのは東軍の永井良和。スタンドには観客がびっしり(写真◎サッカーマガジン)

文◎国吉好弘 写真◎サッカーマガジン

最初のゴールは釜本邦茂

 1972年シーズンの日本リーグ(JSL)前期と後期の間に行なわれた第7回東西対抗戦第1戦の会場は、東京都北区に新設された「西が丘サッカー場」(開設時は「西が丘競技場」、現「味の素フィールド西が丘」)で開催された。この当時サッカー専用競技場と言えば、64年東京オリンピックの会場となった埼玉の大宮サッカー場(当時の呼称は埼玉蹴球場、現NACK5スタジアム大宮)、神奈川・横浜の三ツ沢球技場(現ニッパツ三ツ沢球技場)、それに関西の神戸中央球技場(現ノエビアスタジアム神戸)くらいで、首都・東京にJSL開催が可能な規模のものはなく、また国立として初のサッカー専用競技場の誕生だった。

 第二次世界大戦の終戦後にGHQに接収され、軍事用の倉庫などに使用されていた土地が返還され、国立のサッカー場が建設されることになり、体育館やテニスコート、サブグラウンドも擁する総合的体育施設の一部として出来上がった。

 7月22日、野津謙日本サッカー協会会長ら関係者200人が出席して落成式が行なわれ、こけら落としは26日に日本対スペインのホッケーの試合だった。そして8月25日、冒頭のJSL東西対抗戦でサッカーの試合が初めて開催された。試合は釜本邦茂(ヤンマー)の強烈なロングシュートで先制した西軍が4-2で快勝、釜本の得点が西が丘での最初のゴールとなった。

 この年には、後期の三菱重工対新日鉄など3試合が行なわれただけだが、翌73年には一気に18試合とリーグ全体のメーン会場となる。東京を本拠地とする三菱、日立本社、古河電工のいわゆる「丸の内御三家」がそれぞれ5試合から6試合を西が丘でホームゲームとし、前年まで5、6試合を行っていた国立競技場は各チームとも2、3試合に減った。

 西が丘は観客収容が両ゴール裏の立見席も含めて9000人と、国際試合等には不向きな小さなスタジアムだったが、サッカー専用ということでスタンドからフィールドが間近で、選手の表情や発する声まで見えたり聞こえたりする迫力は満点だった。ナイター設備も整い、夜間のゲームでは芝生の上で躍動する選手たちが美しく見えた。

 しかし、リーグ全体の観客数が72年の1試合平均5027人から73年は2897人に激減する。これは73年からJSL1部のチーム数が8から10となり、試合数も56から90に増えたことも要因だったが、西が丘の使用頻度が急激に増えたことも大きかった。前年に15試合を行なった国立での平均観客数が7900人だったのに対し、73年に18試合を行なった西が丘では3805人に過ぎなかった。

 そのためか、翌74年シーズンには西が丘でのJSL1部の試合は9試合に半減、国立での試合が19試合に増えた。それでも観客数は平均3328人と大幅な回復とならず、スタジアムの規模もさることながらJSLの試合自体の関心が薄れていることを証明する格好となってしまった。この年から関東大学リーグが秋季リーグ全試合を西が丘で開催することとなり「大学サッカーは西が丘」というイメージが定着していくが、JSLも毎年10数試合行なわれ、20試合以上のシーズンもあって主要会場の一つであり続けた。


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