サッカー世界遺産では語り継ぐべきクラブや代表チーム、選手を紹介する。第36回はコパ・リベルタドーレス最多優勝を誇るアルゼンチンのインデペンディエンテを取り上げる。1970年代から80年代にかけて、偉大なる10番が君臨した。

上写真=エンガンチェの元祖とも言えるのがインデペンディエンテのボチーニだ。彼がボールに触れると何かが起こった(写真◎サッカーマガジン)

文◎北條 聡 写真◎Getty Images

カップ戦のキング

 アルゼンチンの流儀と言えば、『エンガンチェ』である。

 背番号10。いわゆるトップ下のポジションに君臨し、魔法の杖をふるって決定的な仕事をやってのける司令塔のことだ。敵の急所を鋭くえぐり、勝利をつかめるかどうか。すべてはエンガンチェの出来にかかっていると言ってもよかった。

 その昔、見る者を魅了するエンガンチェの匠がいた。

 あのディエゴ・マラドーナも、少年時代に憧れを抱いたという。その男は国際舞台で数多くの栄冠を手にしたインデペンディエンテの生ける伝説だった。

 20世紀において、国際タイトルの最多獲得数を誇った強豪クラブがインデペンディエンテだ。アルゼンチンの『赤い悪魔』である。あるいは『カップ戦の王』とも呼ばれてきた。そのタイトル収集癖は尋常ではない。

 南米最強クラブを決めるコパ・リベルタドーレスの通算優勝回数は7。同大会の最多記録だ。1972年からは空前の4連覇を達成。その輝かしい栄光の前では同じアルゼンチンの名門リーベルプレートもボカ・ジュニアーズもかすんで見える。

 1973年にはヨーロッパ王者と覇を競うインターコンチネンタルカップで優勝。だが、相手はチャンピオンズカップ準優勝のユベントス(イタリア)だった。優勝チームのアヤックス(オランダ)が出場を辞退したからだ。

 当時のアルゼンチン勢にはラフプレーに走る「荒くれ集団」とのイメージが根強くあった。悪名をとどろかせたのはエストゥディアンテスだ。1968年から2年連続でインターコンチネンタルカップに臨み、乱暴狼藉を働いて完全に愛想をつかされた。インデペンディエンテにとって黄金期がそうした時代背景と重なっていたのは不運だった。だが、1980年代に入って再び黄金期がやって来る。

 歴戦の勇士を次々と失うなかで肝心の頭脳だけは健在だったからだ。いや、健在どころではない。キャリアの最盛期を迎えていた。復活の時ーーだった。

『パセ・ボチネスコ』

 インデペンディエンテが南米の王者へ返り咲いたのは1984年のことだ。往年の名手ホセ・パストリサがチームを率いた年である。新監督とはいえ、特別に難しいことはなかった。彼を中心にチームを作ればよかったからだ。

 知る人ぞ知るインデペンディエンテの頭脳ーーそれがリカルド・ボチーニだった。背番号10。彼がボールに触れるたびに何かが起こった。その後のアルゼンチンに脈々と受け継がれていった、エンガンチェの元祖と言ってもいい。

 エンガンチェ(スペイン語)を英語にすればフックとなる。物をひっかける道具ーー留め金や釣り針といった意味だ。事実、ボチーニをピッチに送れば、面白いように獲物を釣り上げることができた。マラドーナ少年が「釣り師」の妙技に胸躍らせたわけである。

 公称168センチ。実際はもっと小柄だったか。当時30歳。頭のてっぺんあたりがやや薄くなり、お茶の水博士のような風貌になりかけていた。スマートな見た目を売りにしているわけでもなければ、派手なアクションとも無縁。だが、ひとたびボールを収めると、右足を剣のようにふるって、寄せ手を鮮やかに斬り捨てていく。寡黙な剣豪のようだった。

 代名詞は一撃必殺のスルーパスだ。ライン裏へ走る味方の足元へボールを転がし、GKと1対1の局面を作り出す。アルゼンチンではそれを『パセ・ボチネスコ』と呼んでいる。ボチーニ風のパスというわけだ。

 自ら仕掛けることも点を取りにいくこともほとんどない。ひたすら鋭いパスを放ち、ゴールへ導いていく。だから味方も迷わなくていい。とにかく、預けて、走る。それを繰り返せばよかった。
あとはボチーニの力を余すところなく引き出す仕組みを整えればいい。新監督の手際が試されていたのも、そこだった。


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