1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第28回は86年ワールドカップの半年後に来日したディエゴ・マラドーナ率いる南米選抜とJSL選抜の試合について綴る。

上写真=1987年1月、まさに絶頂期のマラドーナが来日し、南米選抜の一員としてプレーした(写真◎サッカーマガジン)

文◎国吉好弘 写真◎サッカーマガジン

通算4度、日本でプレー

 11月25日、ディエゴ・マラドーナの訃報で、サッカー界やアルゼンチン国内ばかりでなく世界中が驚き、騒然となった。ただ、振り返ればあまりに奔放で破天荒な人生を歩んできた「天才」が穏やかな老後を過ごすとは、誰も考えていなかったのではないか。「天才」という言葉を安易に使うことは戒めなければならないものの、マラドーナはまさに「天才」で、かつ破滅型の天才の典型でもあったように思う。

 ブラジルのガリンシャや北アイルランドのジョージ・ベストといった先例が示したように、アルコールがらみの話題や女性スキャンダル、マラドーナの場合はドラッグに溺れた時期まであり、残念であるのは言うまでもないが、最後までわれわれを驚かせたのは彼らしい天寿だったのかもしれない。

 マラドーナは生前、4度日本でプレーしている。はじめは1979年に日本で開催されたワールドユース選手権(現U-20ワールドカップ)にアルゼンチンU-20代表として参加したときだ。チームを優勝に導き、自らも最優秀選手に選ばれてその存在を世界に示した。続いては1982年1月にボカ・ジュニアーズの一員として日本代表と3試合を戦った。さらに87年1月に南米選抜の一員として、翌88年8月には当時所属していたナポリの選手としてもやってきた。

 ナポリとの試合も日本代表が迎え撃ったのだが、南米選抜と対戦したのは日本リーグ(JSL)選抜だった。この試合は87年1月に行なわれたから、「マラドーナの大会」と言われたメキシコ・ワールドカップ(W杯)の半年後のことで、まさに絶頂期。南米選抜の監督もアルゼンチン代表をW杯優勝に導いたカルロス・ビラルドが務めた。

 他にもブラジル代表のエジーニョ、パラグアイ代表のデルガドなどW杯で活躍した選手が来日した。ただ、全体的にはマラドーナを見るために編成されたチームと言ってよかった。

 対するJSL選抜は現役日本代表のGK森下申一(ヤマハ)、DF加藤久(読売ク)、MF木村和司(日産)、FW武田修宏(読売ク)、前年に西ドイツから帰国して日本代表にも復帰した奥寺康彦(古河)らに加え、まだ日本国籍を取得する前のルイ・ラモス(ラモス瑠偉/読売ク)やブラジル人MFカルロス・ジアス(フジタ)、FWガウショ(読売ク)らを加えたチームで、JSLの実力者をそろえていた。

 南米選抜は寄せ集めであり、コンビネーションは期待できず、コンディションもバラバラだったはずだが、マラドーナを中心に高い個人技で日本選抜を押し込み、31分にブラジル代表のDFジョジマールが先制ゴールを決めた。

 日本選抜も徐々に相手のプレーに対応できるようになり、その後は得点を許さず0ー1のままタイムアップ。得点こそ奪えなかったが、当時のレベルからすれば「善戦」と言われるゲームを演じた。マラドーナをマークしたのはフィジカル能力の高い勝矢寿延(本田、後に日産→横浜マリノス)で、得点につながるプレーは許さず「マラドーナを封じた」などと報じられた。

 しかし当人は「当たりにいっても上体が全く崩れないで、まるで岩と戦っているような感じ。取れそうだと思っても次のフェイントでやられました。足首の使い方がうまくて、パスのタイミングが分からなかった」と振り返っている。


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