連載『サッカー世界遺産』では後世に残すべきチームや人を取り上げる今連載。第32回は、伝説として語り継がれるアルゼンチンのクラブを取り上げる。機械のようなプレーで勝利し、見る者を魅了した1940年代のリーベルプレートだ。

マキナの頭脳

画像: 70年代のモヌメンタルの全景。78年に地元アルゼンチンで開催されたW杯では決勝の試合会場となった(写真◎Getty Images)

70年代のモヌメンタルの全景。78年に地元アルゼンチンで開催されたW杯では決勝の試合会場となった(写真◎Getty Images)

 なぜ、マキナが作動したのか。秘密は「新しい9番」ペデルネラの動きにあった。不動のセンターではない。試合が始まると、すぐに姿をくらませる。そして、ピッチの至るところに現れては消え、また現れた。

 つまり、南米に現れた『ファルソ・ヌエベ』 (スペイン語で『偽9番』の意味)の先駆者だった。点取り屋にして、司令塔でもあったわけだ。

 ガレアーノは前述した本の中でペデルネラを「ひとりオーケストラ」と書いた。まさに万能の男。人々から『マエストロ』 (巨匠)と呼ばれたのも納得がいく。

 なお、6年後に跡目を継ぐのが若き日のアルフレッド・ディステファノだ。当時21歳。ポジションばかりか、スタイル(偽9番)もそっくり受け継いでいる。

 ともあれ『偽9番』の神出鬼没が、マキナをフル稼働させるダイナミズムの引き金だった。そして、ゴール前につくられたスペースに次々と味方が潜り込んで、ゴールラッシュを演じている。

 敵を欺き、味方を走らせ、鋭いラストパスを放つ。そんなペデルネラの才覚を見抜いたペウチェレの慧眼が、マキナの頭脳をつくり上げたと言ってもいい。

 しかも、アタック陣が傑出していた。ムニョス、モレノ、ペデルネラ、ラブルナ、ロウストウのクインテッド(5人組)だ。各々の額面上のポジションは次のとおり。まず両ウイングは右にフアン・カルロス・ムニョス、左にフェリックス・ロウストウだ。さらにインサイドフォワードは右にホセ・マヌエル・モレノ、左にアンヘル・ラブルナ。そして先にも触れたように、センターがペデルネラだった。

 マキナ随一の点取り屋はインサイドレフトのラブルナだ。ペデルネラの空けたスペースを効率良く生かし、ゴールを量産している。チームで最も危険なストライカーが2列目に潜んでいた。

 伝説のユニットが完成したのは1941年ではない。アルゼンチン史上最高の左ウイングの一人とされる、ロウストウがチームに加わった1942年が出発点だ。

 厳密に言えば、6月28日。プラテンセを1-0で破った一戦である。アリストブル・デアムブロシに代わりロウストウが名を連ね、初めて5人がそろった。

 また、リーベルがマキナと呼ばれるようになったのも、この年である。チャカリタ・ジュニオルスを木っ端みじんに打ち砕いた6月12日のことだった。

『悩める騎士たち』の魔法

 リーベルを初めて「マキナ」と報じたのは国内最有力スポーツ誌『エル・グラフィコ』 (2018年に廃刊)だ。

 命名者は「ボロコト」のペンネームで知られたリカルド・ロレンソ・ロドリゲス。ウルグアイ国籍の記者だった。チャカリタを6-2で蹴散らしたリーベルの戦いぶりを「まるで機械のようだった」と書き伝えている。5人のアタック陣がポジションを入れ替えながら、卓越したコンビネーションを演じ、ピッチを休みなく動き回る姿が、マキナを連想させたわけだ。

 この5人は束になってもすごいが、ピンでもすごかった。機械とは真逆の「遊び心」をもって見る者を魅了している。

 見事だったのはトリックの数々だ。ドリブルの途中で宙に浮かせた片足を前後に動かすビシクレタ(自転車)や、足の裏でボールを操るアマサダ(混錬)を多用し、敵の守備者を欺いていく。その姿はまるで曲芸師のようだった。

 また、ドリブルの抜き技もお手のもの。対峙した敵の右(左)へボールを転がし、自らは左(右)へ回り込む「裏街道」も、いとも簡単にやってのけた。

 さらに、両足を交差させながら反転し、浮かせたボールを後ろへ戻すマリアネラ(最愛の星)まで操ってみせる。実用性には乏しかったが、スタンドからはやんやの喝采を受けた。

 こうしたピッチ映えする軽業のオンパレードが冷徹な機械に血を通わせていた。なかでも大観衆を沸かせたのが天才モレノだ。オールバックに口ヒゲをたくわえた風貌はまるでメキシコ映画の主人公。酒と女に明け暮れた遊び人だが、ひとたびボールに触れると、別世界の住人と化した。

 大の練習嫌い。あげくの果てに「タンゴは格好のトレーニング」とうそぶいたが、あながち間違いとも言えない。確かにピッチの上で華麗に舞い踊っていた。

 実はマキナの時代に、もう一つあだ名があった。それが『悩める騎士たち』だ。各々が試合そっちのけで、新しいトリックの挑戦に夢中になったことに由来する。

 もう、冗談のようなホントの話らしい。当代の最強軍ながらも、1943年と1944年はリーグ戦で2位に甘んじ、1946年は3位に終わった一因だろう。

 俺たちは、決して勝つためだけにつくり込まれた機械ではない。興味深いギャップ(エピソード)の数々は、悩める騎士たちの矜持を物語るものだったか。


This article is a sponsored article by
''.