1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第24回は「20万ドルの足」「黄金の足」と呼ばれた杉山隆一の『花道』について綴る。

上写真=JSLをけん引する存在だった杉山隆一(写真◎サッカーマガジン)

文◎国吉好弘 写真◎サッカーマガジン

JSLの大スター

 1974年1月1日、東京の国立競技場では天皇杯全日本選手権の決勝戦が行なわれ、その試合後一人の選手がチームメイトから胴上げをされていた。宙に舞ったのは優勝した三菱重工の杉山隆一、日本リーグ(JSL)時代の日本サッカーを代表するスター選手の一人だ。この日を最後に現役を引退し三菱を離れることになっていた。

 蛇足ながら、杉山は日本代表として1964年東京オリンピックではベスト8進出の立役者であり、銅メダルを獲得した68年メキシコ・オリンピックでも、得点王となった釜本邦茂の得点の多くを生み出した俊足の左ウイング。東京オリンピックの時には、敗れたアルゼンチンの関係者がプロとしての価値を語ったことから「20万ドルの足(当時のレートで約7200万円、プロ野球の契約金でも5000万円を超えることはなかった)」「黄金の足」と呼ばれた。釜本と並ぶJSLの象徴的存在だった。

 このとき杉山は32歳、今ならまだ引退するような年齢ではないが、当時の選手はアマチュアで所属する企業の社員であり、遅かれ早かれ社業に戻らなければならなかった。30歳を過ぎれば「そろそろ…」という雰囲気にもなる。もっとも杉山の場合は静岡・清水の実家で営む家業を継がなければならいというのがその理由ではあったが。

 三菱での最後の試合となった決勝戦では杉山のスルーパスから22歳の足利道夫が先制点を挙げ、2点目も杉山が起点となって後継者とも言うべき俊足ウインガーの高田一美が決めた。後半の日立の反撃も1点に抑えて杉山にとっても、チームにとっても2回目の天皇杯手にした。このシーズン、三菱はJSLにも優勝しており、「2冠」を達成して杉山の花道を飾った。

 1973年のJSLはこれまでと少し様相が異なった。74年ワールドカップ予選の日程などの都合で、開幕が例年の4月から7月にずれていた。また前年から2部ができたこともあって、この年から1部のチーム数もこれまでの8から10へ増え、各チームの試合数は18となった。

 三菱は開幕戦で古河電工に0-2で敗れる苦しいスタートを切るが、続く第2節で東洋工業を2-0、さらに前年のチャンピオン日立製作所も2-0、釜本率いるヤンマーも1-0と下して3連勝を飾りトップに躍り出る。


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