1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第23回は、釜本とブラジルトリオの活躍で栄誉に浴したヤンマーについて綴る。

サッカーが楽しくやれた

画像: 初優勝を果たし、胴上げされるヤンマーの鬼武健二監督(写真◎サッカーマガジン)

初優勝を果たし、胴上げされるヤンマーの鬼武健二監督(写真◎サッカーマガジン)

 前年優勝の東洋工業に、前々年優勝の三菱、さらに効果的な補強をした日立、古河など各チームの戦力が整い、前半戦は混戦となった。しかし、釜本の得点力を活かしたヤンマーが徐々に抜け出し、首位で前期を折り返す。

 後期に入ると小林が日本のサッカーに慣れて本領を発揮するようになり、吉村とともに中盤を制圧した。スピードとスタミナを兼備した右ウイングの今村博治、独特の間合いとセンスで好配球を見せた左ウイングの三田堯がチャンスを生み出し、釜本が決める。当時のJSLでは異質の、見る者を楽しませるサッカーを展開した。

 後期は上位を争う新日鉄と2-2、三菱と1-1で引き分けるスタートを切ったが、追う相手に勝ち点差を詰めさせず、ここから名相銀、東洋、古河に3連勝。迎えた第13節の鋼管戦を釜本の2ゴールなど3-1と快勝し、1節を残して初優勝を決めた。

 のちに釜本が「あの年はブラジルの3人や湯口(栄蔵=メキシコ五輪銅メダリスト)などがそろい、優勝できるチームカになっていたということでしょうね。守備もゾーンに変えて、バラエティーに富んだチームでサッカーが楽しくやれました」と振り返ったように、プレーしていた選手たちも楽しんでいた。

 釜本の入社から5年、着実な補強と強化が実ってのタイトル獲得。そればかりでなく、日本サッカーにプラジルの要素を組み込み、テクニックの重要性を示したことにも意義のあるヤンマーのタイトル獲得だった。

著者プロフィール/くによし・よしひろ◎1954年11月2日生まれ、東京出身。1983年からサッカーマガジン編集部に所属し、サッカー取材歴は37年に及ぶ。現在はフリーランスとして活躍中。日本サッカー殿堂の選考委員も務める。


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