1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第22回は、1987年に得点王に輝いた大器晩成のストライカー、松浦敏夫ついて綴る。

上写真=当時の日本サッカー界では珍しい長身を誇り、得点王に輝いた松浦敏夫(写真◎サッカーマガジン)

 文◎国吉好弘 写真◎サッカーマガジン

JSLで才能が花開く

 年をまたぐ日程となり、1986年10月から翌87年5月まで行なわれた第22回日本サッカーリーグ(JSL)で、新しい得点王が生まれた。このシーズンで2位となった日本鋼管のCF松浦敏夫だ。このとき32歳だった。

 この年までにJSLで11人の得点王が誕生しており、7回という飛び抜けた実績を誇る釜本邦茂が、30代でも得点王になっているものの、初めてのタイトルを取った68年は、まだ24歳だった。その他も全員が20代でその座に就いており、30歳を過ぎて得点王になったのは異色だった。

 異色と言えば190センチという身長、体格もこの時代では特別だった。松浦は翌シーズンも連続して得点王となるのだが、複数回の得点王になった日本人選手を見ると、釜本(1968年、70年、71年、74年、75年、76年、78年。山城高→早稲田大→ヤンマー)、松永章(72年、73年。藤枝東高→早大→日立)、碓井博行(80年、82年。藤枝東高→早大→日立)、吉田弘(81年、85年。静岡工高→法政大→古河)と、みな高校時代から全国大会で活躍したり、ユース代表に選ばれた経歴を持つ。

 松浦は神奈川県の緑が丘高から早大に進んだが、ほとんど無名という経歴も異色だった。

 1978年に加入した日本鋼管でも1年目は3得点、2年目は6得点を挙げたもののチームは10チーム中9位で、入れ替え戦に敗れて2部降格。82年に1部へ帰り咲くが、また1年で2部へ降格した。それでも、この頃から松浦はストライカーとして大きく成長し、武器だった高さも活かせるようになる。

 チームも力をつけて83年JSL2部で優勝、再び1部復帰を決め、松浦も18得点で得点王に輝く。2部で得点王となった選手が、1部でも得点王になるのは初めてのことだった。

 1部に復帰した84年は8位に終わり、1部の壁を感じたが、翌85年には松浦が10得点、同僚の藤代伸世も11得点を挙げ、チームも2位に躍進する。そして迎えたのが、冒頭に記したように『秋-春制』となった86-87年シーズンだった。

 松浦は腰の持病でコンディションが万全ではなく、開幕戦はベンチスタート。それでも第2節、アウェーでのヤンマー戦で先発出場すると、31分に藤代のクロスをヘッドで合わせて先制点。さらに2点を追加してハットトリックを達成、3-2の勝利の立役者となった。


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