連載『サッカー世界遺産』では後世に残すべきチームや人を取り上げる。今回、世界遺産登録するのは、オランダの第3勢力から欧州王者にのし上がったPSVアイントホーヘン。80年代後半、ヒディンク監督のもとで隆盛を極めた。

デンマーク式スタイル

画像: 展開力と得点力を備えたクーマン(写真◎Getty Images)

展開力と得点力を備えたクーマン(写真◎Getty Images)

 国内で敵なしとなったPSVがヨーロッパ最強クラブへ上り詰めるのは「フリット以後」である。1988年5月のことだ。フリットを失ったPSVは抜け目のない補強でチーム力を維持する。まず、待望のスピアヘッドを手にした。国内リーグの得点王に輝く長身FWのキーフトだ。

 さらに、デンマーク代表の心臓レアビーを獲得。このダイナミズムあふれるレフティーは、リベロのクーマンと並ぶ、新たな司令塔でもあった。

 オランダと言えば、4-3-3システムのイメージが根強くあるが、当時のPSVは違った。基本システムは4-4-2である。オランダ風というよりも、むしろデンマーク風のチームだった。『ダニッシュ・ダイナマイト』の異名を取った1980年代半ばのデンマーク代表のスタイルとよく似ていたのである。

 実際、PSVの主要メンバーには、前述したレアビーを含む4人のデンマーク代表がいた。いずれも「ダイナマイト」の仕掛人だ。なかでもアルネセン、レアビー、ハインツェと並ぶ、左サイドのトライアングルが強力だった。

 また、デンマークも当代屈指のリベロを擁していた。キャプテンのモアテン・オルセンだ。すべての攻撃は、この重鎮を経由して始まっている。自らボールを持って攻め上がることもあった。このM・オルセンとペアを組んだニールセンも、このシーズンからクーマンの新しいパートナーになっている。見事に「デンマーク化」が進んでいたわけだ。

 全員攻撃・全員守備のトータルフットボールがデンマークの魅力だったが、PSVも同じである。ボールを持てば、全員が休みなく攻め上がっていく。どこからでも点が取れるチームだった。

 圧巻はクーマンである。

 一発で相手ディフェンスを切り裂く高速のロングパスはフリットのそれをしのぐシロモノ。展開力だけを比べてもM・オルセン以上の存在だった。

 しかも、司令塔として振る舞うだけでは飽き足らず、最後方からガンガン攻め上がっている。そして「牛殺し」と呼ばれた破壊的なキックで、ミドル、ロングレンジから豪快にネットを射抜いた。

 このシーズンに記録したゴールの数は22。得点ランキングの3位につけた。PKやFKのキッカーを担っていたことで数字が伸びた側面もあるが、やはり別格の働きと言っていい。

 得点王を手にしたのはキーフトだった。このシーズンのPSVは最前線と最後尾に強力な決め手を持っていたわけである。

 34試合の総得点は実に117。1試合平均得点は3・4だった。開幕から破竹の17連勝を飾って、悠々と連覇を達成した。

 そして、UEFAチャンピオンズカップ(CLの前身)決勝でベンフィカ(ポルトガル)を破り、宿願のビッグイヤーを手中に収める。5月25日、舞台は西ドイツのシュツットガルトだった。

権謀術数の「裏の顔」

 決勝のスコアは0-0。看板の攻撃力が不発に終わり、PK戦の末にビッグイヤーを手にした。

 らしからぬ戦いぶり――と言えば、その通り。だが、別の見方をすれば、美学に殉じるオランダ勢にはめずらしく、勝てば官軍というリアリズムをもっていた。

 ヒディンクはいかにもオランダ人らしい攻撃サッカーの信奉者だが、同時にオランダ人らしからぬ権謀術数の使い手でもある。そこが強者のスタイルで押し切ろうとする「アヤックス閥」の指導者と違っていた。

 興味深いのは準々決勝以降のベンチワークだ。名将エメ・ジャケ率いるボルドー(フランス)との2試合ではFWの枠を1枚削り、4-1-4-1を採用している。ニールセンとコートのダブルストッパーを使い、クーマンをフォアリベロの位置にもってきた。

「リベロ+2ストッパー」と考えれば、3-6-1(5-4-1)だ。中盤を固め、ボルドーのパスワークを封じる算段だった。

 おまけに手荒いタックルも辞さず、ボルドーの頭脳だった大ベテランのティガナを負傷に追い込んでいる。そして問題が起きた。後日、クーマンが国内スポーツ誌のインタビューで「あれは故意のタックルだった」と告白。事態を重く見たUEFAから出場停止処分を科されてしまう。

 結果、最大の難敵でもあるレアル・マドリード(スペイン)との準決勝第2戦に出場できなくなった。しかし、ヒディンクは的確な手を打って、窮地をしのぐ。

 すでに大ベテランの域に達していたファンデケルクホフ兄弟の兄ビリーをリベロに抜擢。さらに、レアルの要注意人物であるFWブトラゲーニョをマンマークで封じるため、ファンアーレを「刺客」として送り込んだ。そして、空席となった右のインサイドMFにファネンブルグを回し、リンスケンスを右サイドMFに据えている。

 また、左のサイドMFにはケガで戦列を離れたアルネセンに代わり、本来は2トップの一角を担うヒルハウスを起用。中盤を厚くした1トップ・システムを継続し、タレント力で勝るレアルの攻撃を巧みに抑え込んだ。

 ファイナルの陣容もクーマンがリベロに復帰した以外は、準決勝第2戦と同じである。手持ちの駒を上手に使って、チャンピオンズカップ仕様のシステムを機能させるヒディンクの手腕は実に見事なものだった。

 準々決勝以降の5試合はすべてドロー。異例と言えば異例だが、それも勝負師ヒディンクのマキャベリズムの成せる業だった。オランダ勢のヨーロッパ制覇は1972-73シーズンのアヤックス以来のことだ。3強時代の幕開けである。


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