上写真=1995年7月30日に三ツ沢球技場で開催された木村和司引退試合での一コマ(写真◎BBM)
文◎平澤大輔(元サッカ―マガジン編集長)
完全性への憧れ
2020年J1リーグ開幕戦。DAZNの中継で清水エスパルスvs FC東京の試合を見ていた。つくづく、自分は中盤の選手が好きなんだなあ、と思い知らされた。始まってすぐ、ある選手から目が離せなくなってしまったからだ。
中村慶太。清水エスパルス。背番号20。
飄々と動き、さり気なくボールを動かし、予測外の場所に予測外のタイミングで技巧的なパスを送り込む(これを個人的に「見えないパス」と呼んでいる。私自身が見えていないという意味で)。ボランチとしてチームの中心に立ち、時に相手に立ちはだかり、時にゴールを狙いに飛び出していく。これは好物だ!
要は、チャンスも作れてゴールも決めて、守備もしっかりしていて、というオールラウンドなMFの「完全性」のようなものに特別な憧れを持つ癖があるらしい。
そういえば、これまでもずっと、MFを中心にサッカーを見てきた気がする。MFといってもいろいろだけれど、ピッチの真ん中に立って360度の視野を持つ彼らを追うことで、自分なりにサッカーの理解へと結びつけようと(無意識のうちに)してきたようだ。
その最初のきっかけを与えてくれたのは、あの2人だと思う。
まさかの僥倖
フットボールという名の興奮を最初に浴びたのは、日産自動車が黄金期を迎えていた80年代だから、「2人」が木村和司と水沼貴史であることに驚きはないだろう。センス抜群のスルーパスと必殺のFKで相手を怖がらせた木村、しなやかなドリブルですいすいと相手を気持ちよさそうに置き去りにしていく水沼。日産と日本代表が誇るスターは、本当に憧れだった。
1993年にJリーグが開幕するころには彼らはベテランで、日産から横浜マリノスに変わったクラブで新旧交代の波の中にいて、ケガもあり、随時出場したわけではなかった。木村は94年に、水沼は95年にスパイクを脱いだ。
彼らに憧れの眼差しを向けていた私は、Jリーグ開幕の年から「サッカーマガジン」の一員となり、最初の3年間は横浜Mの担当となった。まさか2人の引退に担当記者として立ち会い、伝えるという僥倖を得るとは思わなかった。
「ずいぶん焼けとるな」
木村の引退試合は1995年7月30日の日曜日に横浜の三ツ沢球技場で行なわれた。試合後に多くの先輩記者に加わって木村を囲み、長い間、質問を投げかけていた。
木村はこんな風に答えている。
「いまはもっともっとサッカーがうまくなりたい気持ちでいっぱいです」
「(得意のFKは)もう5本ぐらいあれば、いいのが決められたかもしれないけど(笑)」
「今日はかっこわりぃなあ。悔しくてしょうがないよ、ホントに。でも今日やらせてもらって本当にうれしく思ってます。これで1点でも入れとったら、泣けたかもしれないけど(笑)。ああ、チキショー! 本当に足つりそうだったよ」(週刊サッカーマガジン1995年8月16日号より)
スーパーヒーローの「最後の取材」の余韻をみんなで味わった一体感は忘れられない…のだが、思い出すたびに赤面するのが、木村から最初に投げかけられた一言だ。
「ずいぶん焼けとるな」
この大事な試合はナイトゲーム。会場入りする夕方までの時間を利用して、私はのんきなことに藤沢の海岸で友人たちと海水浴に興じていたのだ。大スターの晴れ舞台を前に、なんの緊張感も持っていなかったことが露呈してしまったわけだ。
でも、ポジティブに考えれば、しんみりとしそうなその場を和ませようと、私の真っ赤な日焼け顔を引き合いに出して笑いにしてくれた、彼らしい優しさなのではないだろうか。
そうであったとしてもなかったとしても、「あの木村和司」から送られた一言は駆け出しの記者にとって宝物になった。いまでも夏に強烈な日光に当たるたびに思い出して、心が温かくなる。