1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第1回は1965年の驚きのエピソードを綴る。

上写真=1966年6月12日、広島国泰寺高校グラウンドで行なわれた東洋対古河(2-0)。東洋には今西和男や松本育夫、古河は川淵三郎、宮本征勝らJ創成期の功労者の名も(写真◎BBM)

日本サッカーリーグの誕生は1965年

Jリーグが華々しくスタートした1993年から遡ること28年、1965年に「日本サッカーリーグ(JSL)」は誕生した。1964年に開催された東京オリンピックにおいて目標であったグループステージ突破、ベスト8進出を果した日本代表の活躍を受けて、さらに日本サッカーのレベルアップ、普及を図り、発展させるべく、ドイツ人コーチ、デットマール・クラマーが提言。さまざまな困難、解決しなければならない問題があった。

だが、「日本サッカーを上昇させるために、どうしてもやろう」(長沼健JSL常任委員、日本代表監督。1966年JSL年鑑より)と、とにかく前へ進もうという関係者の努力により、日本のアマチュアスポーツ界で初めてとなる全国リーグが組織されることになった。

それまでは、負ければ終わりの勝ち抜き戦による全国大会が主流で、トップレベルのチーム同士が複数回対戦する総当たりのリーグ戦が必要であることをクラマーは説いた。サッカーの本場であるヨーロッパでは早くから当たり前に行なわれていた方式だが、当時の日本では大学など地域、期間が限られた形で行なわれていただけだった。

参加したのは関東から古河電工、日立本社、三菱重工(いずれも東京)、東海から豊田織機、名古屋相互銀行(ともに愛知)、関西からヤンマーディーゼル(大阪)、中国から東洋工業(広島)、九州から八幡製鉄(福岡)と全国から選りすぐられた8チーム。ホーム・アンド・アウェー2回戦総当たりで、各チームがホームグラウンドを用意するのだが、関東勢は東京オリンピックで使用した駒沢競技場や横浜の三ツ沢球技場が使用でき、愛知には名古屋に瑞穂、刈谷にも競技場があった。

また、関西は大阪に靭(うつぼ)、京都に西京極、神戸に王子競技場、北九州にも大谷、鞘ヶ谷競技場があったが、広島にはそうした施設がなかった。東洋のホームゲームが行なわれたのは何と、広島国泰寺、広島大附属、広島皆実と3つの高校のグラウンドだったのだ。

国泰寺高のグラウンドは1957年度の天皇杯全日本選手権では決勝戦も含めた会場になるなど、当時国内の主要な大会でも使われていた。とはいえ、あくまで高校のグラウンドであり競技面は土で(リーグの規約では芝のフィールドを用意することが求められていた)、観客の多くは立ち見で観戦しなければならなかった。

今では考えられない環境での試合開催だった。それでも東洋は14試合を戦って12勝2分けと無敗で初代チャンピオンに輝く。優勝を決めた最終節も広大附高のグラウンドでヤンマーを11-0と圧倒し、歓喜の時を迎えた。

続く2年目の1966年シーズンも、東洋は高校のグラウンドでホームゲームを戦い2連覇。3年目の1967年後期にようやく広島県営競技場が新設されここで3連覇も達成、さらに4連覇まで記録を伸ばした。下村幸男監督に率いられたチームは、堅守と組織的なサッカーで、まだ個人の力に頼りがちなプレーが多かった時代に異彩を放った。また、劣悪な環境にも屈しないタフさも持ち合わせていた。

見切り発車と言っていいスタートを切ったJSLだが、さまざまな問題を抱えながらも、選手の成長に不可欠な戦いの場を提供した。そのエネルギーが1968年メキシコ・オリンピックでの銅メダル獲得の快挙につながったことは間違いない。

文◎国吉好弘

著者プロフィール/くによし・よしひろ◎1954年11月2日生まれ、東京出身。1983年からサッカーマガジン編集部に所属し、サッカー取材歴は37年に及ぶ。現在はフリーランスとして活躍中。日本サッカー殿堂の選考委員も務める


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