上写真=選手と監督(コーチ)として戦っていたカズと岡田武史氏(写真◎BBM)
10月6日、週刊第1号発売
サッカーマガジンが月2回刊を経て週刊誌として発刊されるようになったのは、1993年の10月からだった。正確には1993年10月20日号が「週刊第1号」。毎週水曜日の発売で、10月6日が記念すべき発売日だった。
表紙を飾ったのは、日本代表のユニフォームを着たカズ(三浦知良)と井原正巳だ。
Jリーグが開幕した年で、このときはリーグ後期にあたるNICOSシリーズが開幕していたが、中断中。というのも、1994年アメリカ・ワールドカップのアジア最終予選が行われることになっていたからだ。
華々しく開幕したJリーグと両輪で社会現象になったのが、日本代表の躍進。だから週刊第1号の表紙にカズと井原という攻守のエースが登場したのも当然だった。当時の日本代表担当で副編集長だった伊東武彦さんがスペインキャンプに同行していて、ユニフォーム姿の2ショット撮影を日本サッカー協会の担当者に依頼して成立したカットだ。日本のトップランナーたる清廉さと迫力を同時に感じさせる爽やかな笑顔はいま見ても眩しい。
余談だが、サッカーマガジンがずっと三浦知良のことを「カズ」と表記しているのには訳がある。Jリーグが開幕する前に選手表記について編集部内でコンセンサスが図られたのだが、カズは自ら「”カズ”にしてほしい」と頼んできたというのだ。
「〜というのだ」と書いたのは、これが聞いた話だから。私はまさにこの1993年4月に入社してサッカーマガジンに配属されたばかりなので、先輩がその経緯を教えてくれたというわけだ。
雑誌業界的なことを言えば、月刊時代と月2回刊時代は雑誌の綴じ方は「平綴じ」と呼ばれる製法で、背の部分が平らになっている。しかし週刊誌になって、これが「中綴じ」に変わった。雑誌の中央付近で2箇所、ホチキス留めされているもので、初々しい新人にとってはこれが新鮮でかっこよく感じたものだ。
それはともかく、この週刊第1号は表紙から日本代表の特集で、スペインキャンプについて詳報している。巻頭はカズと井原を取り上げ、エースとディフェンスリーダーの自信と葛藤を記している。特集全体としては、当時にしては破格のカラー21ページ、モノクロのリポートが5ページと大々的。
これを2019年の現在から見返してみると、現在監督として活躍している人たちの当時が垣間見えて微笑ましい。カラーページではささやかなオフの写真も掲載していて、現地の若い美女のグループに囲まれた選手たちがにこやかに収まっている1枚がある。そこには現在の日本代表を率いる森保一監督の爽やかすぎる笑顔も見ることができる。
一方で、「ニューカマー」として特集した中の一人に長谷川健太がいた。ご存知の通り、現在はFC東京を率いてクラブ初のリーグ制覇に向けて奮闘中だ。FC東京ではハードなディフェンスの哲学を植え付けて、全員守備が大きな武器。これを踏まえた上で、当時の長谷川のコメントを見てみると「守りについても言われるけど、(中略)なるべく攻めで力を使いたい」と攻めの一心。監督としては守備でチームを躍進させている男の、28歳を迎えようとする当時のアタッカーらしいギラギラ感が頼もしい。
また、当時の日本代表で最大の懸案が、左サイドバックの絶対的な存在である都並敏史の負傷と、彼に代わる左サイドバックの人材難だった。都並は左足首を痛め、リハビリに没頭。最終予選に間に合うかどうか微妙なタイミングの苦闘も特集している。
「つらい。本当につらい」
「人生最大の試練です」
「もう間に合わないと思う、間に合ったとしても100には戻れない。本大会がある? そんなこと考えてもいない。本大会は誰が出てもいい。日本サッカーの夢であるワールドカップに導くことが、僕には大切なんです」
そんな悲痛な叫びを紹介した。
ご存知の通り、結果から言うと負傷は癒えずに最終予選に間に合わなかった。都並が万全ならば「ドーハの悲劇」(イラクとの最終戦のラストプレーで同点に追いつかれて、ワールドカップ出場を逃す)もなかった、とされるほどの大損失だった。
ただ、そもそもは都並を脅かすライバルが存在しないことが問題だった。それだけ「左サイドバック」というポジションの優先順位が低かったのかもしれず、それがそのまま当時の日本サッカーのレベルを暗示しているようだ。
10月4日、怪物誕生
この「ドーハの悲劇」も10月の出来事だった(28日)が、1997年の10月4日には、個人的には近代日本サッカー史の中で最も影響力があったと思う出来事が起こっている。
「監督・岡田武史」の誕生である。
1998年フランス・ワールドカップ最終予選を戦う中で、加茂周監督が成績不振により更迭され、岡田コーチが昇格、という人事。この岡田体制で逆襲が始まり、アジア第3代表決定戦でイランに延長戦の末、3−2で競り勝って初めての本大会出場を勝ち取った。そのことも確かに歴史的な慶事だ。ただ、日本サッカーの動静をフランス・ワールドカップ以降も含めた長いタイムラインの中で観察して整理していくと、やはりこの「監督・岡田武史」という、いわば怪物(いい意味です)が私たちの目の前に生み落とされた事実は、もしかしたらワールドカップ初出場と同様に、重要なエポックだったのではないかと思うのだ。
このことについては、2016年に弊社から発行した書籍「サッカー日本代表 この試合がスゴイ! ’90年代編」の中で【厳選、90年代日本代表この1試合】の項に記した。97年のカザフスタン対日本(1-1/フランス・ワールドカップアジア最終予選)である。ここに再掲してみたい(以下)。
日本サッカーの近代史をたどると、このカザフスタンとのドローがとても大きな意味を持つのだということを、いまになって実感している。いや、いまでなければ実感できない、と言ったほうがいいかもしれない。
あの夜、私たちの前に「岡田武史」が姿を現したのだ。
カザフスタンに引き分けたことが発火点となり、監督だった加茂周が解任された。岡田は火中の栗を率先して拾うかのようにその座を受け継ぐと、選手の意識を変え、システムを変え、メンバーを一部変えて真っ向から戦いに挑んだ。「岡ちゃん」というポップな呼称と正反対の、激烈な情熱の炎を燃やして選手以上に戦う男だった。
ウズベキスタンとUAEに1−1のあと、韓国に2−0、カザフスタンに5−1、そして延長の末、イランを3−2で下して、この国を初めてワールドカップに導いた。ワールドカップでは3戦全敗の憂き目に遭うが、ジェットコースターのような日々の中でこんこんと湧き出るそのパワーには、この人でなければ持ち得ないと思わせる強さがあった。
岡田は、それが勢いだけではないことを証明していく。コンサドーレ札幌(J2優勝)、横浜F・マリノス(J1優勝2回)で監督を務めると、イビチャ・オシムが倒れたあとを引き受けて2度めの代表監督に就任し、南アフリカ・ワールドカップでベスト16に導いた。中国に渡って杭州緑城で監督業を続けたと思いきや、日本に戻って地域リーグのFC今治でオーナーを務める。そして2016年、日本サッカー協会の副会長に就任したのだ。
こんなパワフルな経歴を手土産に副会長にまで登り詰めてしまえば、小者ならもう「上がり」とばかりに居丈高に振る舞うだろう。岡田はどうだろうか。
そんなことをするわけはない、と信じさせるだけの決然とした意志が、岡田には自然に備わっているような気がしてならない。その姿勢は「父性」そのものだ。
そう、日本サッカーはカザフスタンはアルマトイの夜に、まさしく「父」を見つけたのだと思う。少々古めかしくなるが、普段は寡黙で不器用でも、いざというときに誰よりも頼りになる、唯一無二の父を。そして好ましいことに、この物語はまだまだ続くのだ。
……ということについて同意を求めようとすると、岡田はきっと「そんな馬鹿なこと書いてないで、ちゃんと仕事しろ」と言うに違いないのだが。
常識外れの開拓者
読み返しても、この人がやることは何もかもが意外で異例で、常識外れ(これもいい意味です)なのだということを改めて実感する。日本サッカー界、というかその枠を超えた日本そのものの「一般論」に抗うかのように、誰も作ったことのない「新しいサッカー人像」を示すべく、道を切り開いてきたのだ。
それは、カズにしても井原にしても、森保、長谷川、都並も同じだろう。これまでに見事な「時代」を作ってきて、いまもまさにそれぞれの立場で新しい未来を築き上げている真っ最中だ。まだまだ最先端を行く者として、突き上げてくる下の世代とつば迫り合いを繰り広げている。
理想的なサッカーチームがそうであるように、世代間競争は日本サッカー界の刺激になり滋養になる。過去の栄光や大げさな権威や知名度の高さをブンブン振り回してふんぞり返るようなくだらない態度を取ることなどない彼らが、先輩として戦い続けているからこそ、追いかける世代は遠慮なく立ち向かっていけるのだ。
その好循環をサッカー界はいつまでも続けてほしいと思う。
文◎平澤大輔(元週刊サッカーマガジン編集長) 写真◎BBM