上写真=99年4月28日、国立競技場で開催された鹿島対清水戦で、ワールドユースで準優勝した鹿島の選手たち(曽ヶ端、中田、小笠原、本山)が挨拶
黄金の銀
1999年4月24日土曜日、ナイジェリアのかつての首都ラゴスに鎮座するナショナルスタジアム。90分の戦いを終えた日本の選手たちは大敗に呆然としていた。
とはいえ、これは正真正銘、「世界大会」の決勝である。ワールドユース1999。20歳以下の選手で構成された代表チームの世界チャンピオンを決める、いまで言うU−20ワールドカップだ。そこで銀メダルを獲得したのである。
すべての年代を通じてFIFA(国際サッカー連盟)主催の世界大会で初めてファイナルに勝ち進んだ日本は(当時)、大会屈指の好チーム・スペインと戦い、0−4で散った。相手にはのちにバルセロナの主軸として名を馳せるMFシャビがいて、そのことを強く記憶している人も多いだろう。
ざっと振り返っておくと、この大会ではグループステージでカメルーンに1−2(4月5日、得点者=高原直泰)で敗れたものの、米国に3−1(4月8日、得点者=オウンゴール、高原直泰、小笠原満男)、イングランドに2−0(4月11日、得点者=石川竜也、小野伸二)としてグループEを首位で突破。トーナメントに入っても快進撃は続き、1回戦はポルトガルを1−1からPK5−4(4月15日、得点者=遠藤保仁)、準々決勝はメキシコを2−0(4月18日、得点者=本山雅志、小野伸二)、準決勝はウルグアイを2−1(4月21日、得点者=高原直泰、永井雄一郎)と次々に破って、最後の最後でスペインに屈するという結末だった。
得点者の名前を振り返ればお分かりの通り、20年前のあのとき、暑さと湿気にも苦しめられたナイジェリアで戦っていたのは、日本サッカー史上に燦然と輝く「黄金世代」と呼ばれたメンバーだった。大会ベストイレブンに選出された小野伸二と本山雅志をはじめ、過去最高成績を収めた彼らには惜しみない賛辞が送られ、誰もがその才能にまばゆいばかりの未来を見た。週刊サッカーマガジン1999年5月12日号では表紙に大々的に「黄金の銀」と打ち、この前年に初めてワールドカップに出場したばかりの日本サッカーの、さらなる新時代の到来を報じた。
トルシエのステイタスを高めた男
日本サッカーの長い歴史の中でも、この1999年から2002年までの3年間はとても特異な期間だった。その特殊性がこの「黄金世代」にも大きな影響を与えていて、同じように彼ら自身も時代に大きな影響を与えた。
1996年のFIFA理事会で、2002年ワールドカップを日本と韓国で開催することが決定されたとき、チーム作りの現場からの目線ではっきりしたのは、ワールドカップ予選が免除されることだった。5年後の本大会を見据えた逆算でチームを組み立てていくことができるのだ。
現代フットボールにおいて代表チームを形作っていくのに、これだけの長期間を使うことができるのはほぼありえない。もちろん、この時点では未来がどうなるか分からなかったものの、結果として、日本代表監督に就任したフランス人のフィリップ・トルシエがこの期間の3つの世代のナショナルチームを作り込むことになった。振り返ってみると、何とも贅沢な話だ。
その「第1段階」が、この1999年のワールドユースだった。とても多くの意味で有意義な大会で、例えばトルシエという指導者は実際のところ、一体何者なのかということが広く判明したことは大きい。
選手の人間としての成長を重視する姿勢が顕著で、大会前の合宿で選手にブルキナファソの孤児院を訪問させたりするのは、まるで厳格だが聡明な教師のようなふるまいだった。練習の方法もユニークというかなかなかのアクションスターぶりで、選手を突き飛ばすことは日常茶飯事、口角泡を飛ばし、いつも顔を真っ赤にして怒鳴り散らしていて、選手にも煙たがられていたから、ついた愛称は「赤鬼」だ。選手に限らずスタッフにも日本サッカー協会の幹部にもあらゆるメディアにも歯に衣着せぬ言動と態度で迫り、一方でプライベートでは妙に紳士的だったり、または羽目を外してお茶目なパフォーマンスを披露したりすることもあって、エキセントリックでコミカルで、でもやっぱり過激な人物像は良くも悪くも話題の中心であり続けた。
トルシエが幸運だったのは、上記のように(協会としょっちゅうぶつかっていたからいつ契約が解消されるか分からないスリルはあったものの)2002年ワールドカップまでの長い時間を使うことができたこと、そしてなにより、珠玉の「黄金世代」をその手に預かったことだった。
彼らとともに歩む大きな節目は3つあった。このワールドユース、2000年シドニー・オリンピック、そして2002年日韓ワールドカップである。このトルシエ指揮下の3大会を見ると、ワールドユースのメンバーのうち00年、02年の両方、もしくはどちらか一方にも引き続き選ばれたのは、稲本潤一、酒井友之、小笠原満男、高原直泰、本山雅志、中田浩二、小野伸二と7人もいる。
余談だが、トルシエ以降のワールドカップで言えば、加地亮が2006年ドイツ大会、稲本潤一が06年、2010年南アフリカ大会、小笠原満男、高原直泰、中田浩二、小野伸二が06年、遠藤保仁が06年、10年、14年ブラジル大会のメンバーにも入っていて、長く日本サッカーの骨格を成すグループとなっていった。
その中でも特に、トルシエの慧眼によって見出され、逆にその発見によってトルシエ自身もステイタスを高めてもらった選手がいる。
中田浩二である。
モダンなセンターバック像
ワールドユースで中田浩二は7試合すべてに出場していて、ポジションは3バックの左だった。
トルシエの3バックと言えば、「フラット3」として彼の代名詞になっている。3人でピッチの横幅を守り、その立ち位置をとても高いところに設定し、つまりこちらのゴール前に広大なスペースができるリスクもはらんでいて、かつ、ほんの一歩の単位で3人がぴたりと揃った上下動の微調整を90分を通して迫られる戦術である。
3人のうち1人でもラインが揃わないと、失点に直結する恐怖がある。間違いは許されない。一方で、理想通りに事が運べばオフサイドの山を築くことができるし、前線との距離がコンパクトになって攻撃のブーストになる。トルシエは日本で一貫してこの戦術をベースに据えていて、DFにはフラット3を理解して実行できる選手しか選んでこなかった。
とはいえ、ワールドユースの時点では初めて選手にノウハウを植え付ける段階だ。しかも、プロになりたての選手がほとんどの若い代表だ。加えて、大会前に2人のDFが負傷で離脱することになった。緊急事態である。
であるのだが、物事はこちらから見れば緊急事態でも、逆から見ればブレイクスルーのきっかけだった、というのはよくある話。トルシエが選んだのは、ボランチだった中田浩二をコンバートして挑むこと。すると、急ごしらえのフラット3でもなんと準優勝したのである。緊急事態を発端とする「センターバック中田浩二」の発見が、トルシエにとっても中田浩二にとっても大きな果実をもたらした。
中田浩二はワールドユースで全7試合に出場した翌年、00年オリンピックでは4試合中3試合で先発、02年ワールドカップでも全4試合にフル出場と、すべてフラット3の一角に座って歴史を切り開いてきた。小難しい戦術をそれぞれのチームに浸透させるにあたって、中田浩二の理解力と経験値がどれほど役に立ったことか。まさにトルシエ・ジャパンの陰のコンダクターだったと言っていいかもしれない。
背筋をすっと伸ばし、感情の変化を表に出さず、卓越した頭脳で冷静にラインをコントロールし、相手アタッカーを駆け引きで無力化し、自慢の左足でエレガントにパスを送る。日本のモダンなセンターバック像が誕生したのが、まさに1999年4月のことだったのだ。
「頭痛フットボール」のコンダクター
ワールドユースの興奮も冷めやらぬ頃、週刊サッカーマガジンでは大会で活躍した鹿島アントラーズ所属の3選手、小笠原満男、本山雅志、中田浩二に振り返ってもらうインタビュー記事を掲載した(1999年5月26日号)。
20年後のいま読み返してみても、とても興味深い一節がある。
−−相手のFWがプレッシャーを掛けてきても、落ち着いてつないでいたと思うけれど。
中田 全然そんなことないです。しかも、一度FWをかわしたら、監督に怒られました。「早く蹴れ!」って言われて。
−−ただ、蹴るだけでもいけない。
中田 だめなんですけど、持っていても怒るんです。
−−最近、アントラーズでも紅白戦でセンターバックをこなしていますが、(本来のボランチと)どちらのポジションでやりたい?
中田 どちらでもいいです。(中略)ディフェンスって、それほどプレッシャーがないから、ボールを持てるじゃないですか。だから、前に行って(注:ボランチに入って)、プレッシャーの中でやれるかなと思う。でもやりたい。その一方でディフェンスの面白さも分かってきたし、監督の使ってくれる方でいいです。
−−どんな点におもしろさを感じたんでしょう?
中田 頭を使うとおもしろいですよ。人を動かしたり、読みでボールを取ったりとか。
−−FWとの駆け引き、ラインの上げ下げといったような?
中田 そう。結構おもしろいですよ。頭が痛くなりますけどね(笑)。
最終ラインで奪ったら素早く的確にボールを前に送るというトルシエの哲学を必死に表現しようとする健気な一面も垣間見えるが、やはり「頭が痛くなる」という一言が実感だろう。ボランチが本職で、もともと頭脳派と言われていた選手でさえ頭痛を覚えるというディフェンスの妙。
フィリップ・トルシエという男を苦手とする人は多いと思うけれど、そんな人でも「中田浩二」を見出してくれた功績には大いに感謝しなければならない。
ありがとう、フィリップ。
文◎平澤大輔(元週刊サッカーマガジン編集長) 写真◎Getty Images、J.LEAGUE