さまざまなルーツを持つ選手たちが一枚岩になり、優勝を目指した。フランスのサッカーファンにとって98年のレ・ブルーは美しい記憶だ(写真◎Getty Images)

 強豪国が軒並み苦しんでいるロシアW杯で、フランスは開幕から2連勝を飾り、早々と決勝トーナメント進出を決めた。若い選手が多く、経験不足を心配されたが、チームを率いるのは、選手としてW杯優勝を経験しているディディエ・デシャン監督だ。
 プレッシャーがかかる開催国ながら98年大会では主将としてチームをけん引し、さまざまな困難を乗り越えて見事優勝を果たしている。

文◎佐藤 景 写真◎Getty Imagase

ジダンの退場をがひとつのきっかけになった

 20世紀最後の祭典は、ワールドカップの創設者、ジュール・リメの母国フランスで開催された。この記念すべき大会でチャンピオンの栄誉に浴したのも、そのフランスだった。何とも出来すぎたシナリオだが、それはずいぶんと起伏に富んだ道のりの末に書き上げられている。
初戦の相手、南アフリカを3-0で退け、一つ目の山を越えたまでは良かったものの、2戦目のサウジアラビア戦でホスト国は予期せぬ事態に見舞われた。攻撃の要、ジネディーヌ・ジダンがラフプレーで退場となり、2試合の出場停止処分を受けたのである。
 そもそも堅守が売りのチームで、攻撃はジダンひとりに多くを拠っていた。初戦でフランス・リーグ得点王のステファン・ギバルシュが負傷し、代わって1トップを務めたクリストフ・デュガリーも、このサウジアラビア戦の前半で負傷交代を余儀なくされる。そんな状況下でのジダンの退場だった。
 指揮官のエメ・ジャケがチームづくりの課程でエリック・カントナやダビド・ジノラといった時のスター選手と決別し、攻撃の全権をジダンに託した事情もあった。98年のチームはジダンの不在が即、攻撃力の低下を意味した。
しかし、エースの処分が決まった後、指揮官は選手たちにこう語りかける。
「仮にベスト16で破れれば、ジダンのワールドカップは終わりだ。われわれが彼のためにも戦うということを忘れてはいけない」
 ジダンの欠場を、チームの結束を促す手段とした。そしてチームは指揮官の狙い通りに結束を強めることになる。ジダンを欠くと攻撃が成立しないとされながらも、デンマーク戦では代役を務めたユーリ・ジョルカエフと守備的MFのエマニュエル・プティが、決勝トーナメントの1回戦のパラグアイ戦ではDFのローラン・ブランがゴールを挙げ、勝ち進んだ。
日替わりでヒーローが登場するチームを、GKのファビアン・バルデスは「雰囲気がとても良い。僕らは22人、全員で戦っている」と説明した。実際、フランスは全員で戦うチームになっていた。グループステージを終えた時点で、2人の控えGKを除いた19人全員がピッチに立っている。モチベーションを高め、それを保つことに指揮官ジャケは成功したのだ。

冷めていた国民が勝利で熱狂し始めた

 大会前、それほど母国の代表に期待感を抱いておらず、冷ややかな反応を見せていた国民も、チームが結束し、勝利を重ねるにつれて次第に熱を帯びていった。多くの移民とその2世、3世が暮らすフランスという多民族国家を象徴するようなチームの構成も、国民の支持を集めることにつながった。
 ジダンはアルジェリア移民の子、ジョルカエフはアルメニア、リリアン・チュランはグアドループ島の生まれで、ディディエ・デシャンとビセンテ・リザラズはスペインのバスク地方の出身。チームの22人のうち、フランス人は9人だけ。まさしくフランスという国家の縮図のような代表チームだった。
「さまざまな選手から成るわが国の代表は、人間的であり、強靭なフランスという国の美しいイメージを象徴している」
そうフランスを称したのは時の大統領、ジャック・シラクだった。自国の代表を肯定的に語ることで自身の支持率を大会前に比べて15ポイントも上昇させたが、その事実からも当時の国内の雰囲気がうかがえる。

決勝で恩返しのような2得点

 パラグアイを下したフランスは、その後も苦しいゲームをしぶとくものにしていった。準々決勝ではイタリアをPK戦の末に下し、準決勝ではクロアチアに先制を許しながら、右サイドバックのチュランの2ゴールで逆転勝ち。フランス史上初めてベスト4の壁を突破し、ファイナルへ駒を進める。国中で初優勝への期待が高まっていった。
 だが、チームはこのクロアチア戦で再び試練を迎えることになる。主将のローラン・ブランが退場処分を受け、決勝に出られなくなったのだ。準決勝までの6試合でわずか2失点という堅守の中心であり、精神的な支柱でもある主将の不在は、ジダンの不在と同様に、大きなマイナスとなることが予想された。
 ところが、ジダンの不在を経験し、プティが「まるでクラブのようだ」と語る結束を手に入れていたチームは動じなかった。決勝のブラジル戦で、ブランの代わりにフランク・ルブフを加えた4バックは、それまでと同様に堅固な城壁をゴール前に築き上げ、世界有数の攻撃力を封じ込める。
 そして大会序盤に不用意なラフプレーで退場となり、チームを窮地に立たせたジダンが、この決勝で2ゴールをスコアする。まさにチームに対する恩返しのようなゴールで勝利を手繰り寄せた。
「われわれはこの大会期間中に、コミュニティーに必要なスピリットをつくり出すことができた。私たち、フランスが成し遂げたすべてのことを誇りに思っている。そして、そのすべてが、われわれのチームがパーフェクトにまとまっていたことを証明する」
 大会前から批判の矢面に立ち、大会中も批判を浴びたジャケは、そう言って胸を張った。批判の急先鋒だった『レキップ』紙が、優勝翌日の同紙で謝罪し、敗北を宣言したのは有名な話だ。
地の利はもちろん、あっただろう。イタリアとの激闘をPK戦の末に制すなど、運も味方したのかもしれない。ただ、98年大会で最も「チーム」としてまとまっていたのが、このチャンピオン、フランスだった。
 レ・ブルーの愛称で親しまれる代表チームはピッチ内と同時に、ピッチ外でも難しい融合に成功してみせた。その勝利が確かな説得力を伴ったのも当然だろう。


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